頭の中が真っ白な状態で、わたしは鏡音君と一緒に歩いていた。どれだけ歩いたのか、それすらもよくわからない。とにかく、しばらく歩くと、鏡音君が立ち止まり、わたしの肩を抱く腕を放してくれた。
「……ごめん、変なことに巻き込んじゃって」
「ね、ねえ……何だったの、今の? あの子たち、中学の同級生って言ってたけど……それに、わたしとデート中って、どうしてそういうことになったの?」
何がなんだかわけがわからない。わたしがお手洗いに行っている間に、一体何があったんだろう。
「ちょっと座ろうか」
鏡音君はそう言って、わたしを近くにあった椅子にかけさせた。そのまま、自分はかけずに、近くのジューススタンドの方へと歩いていく。
「巡音さん、何飲みたい?」
「あ……じゃあ、オレンジジュースを」
鏡音君が飲み物の入った紙コップを二つ抱えて戻ってきた。うちの片方を、わたしに差し出す。
「……ありがとう」
飲み物に口をつけかけて、それからわたしは、自分の分のお金を払ってないことに気づいた。
「あ……お金……」
「いいよ、これぐらい。迷惑料ってことで」
鏡音君は、わたしの向かいの椅子に腰を下ろした。
「でも……」
「だからいいって。で……さっきのことだけど」
鏡音君が説明を始めたので、わたしは背筋を正した。
「さっきの子たちは、俺の中学の時の同級生。で……まあその、なんていうか……そのうちの一人と、俺、前につきあってたわけ」
……え? つきあってたっていうことは、あの中の一人が鏡音君の恋人だったってことよね?
「さっきずっと喋ってた、背の高い子?」
「いや、それじゃないよ。髪を垂らしてた子の方」
ウェーブのかかった髪の子が、鏡音君とつきあっていた子なのね。前にという言い方をするということは、別れたということだけれど……。
訊いてみたいことはたくさんあった。どうして別れたのかとか、さっきは何を話していたのかとか。でも、訊いていいのかどうかわからない。デリケートな問題だろうし……。
「どうして……わたしとデートをしている振りをしたの?」
これだったら、まだ訊いても大丈夫かな……。わたしもびっくりしちゃったし。本当のことを言うと、まだ心臓の鼓動が落ち着いていない。
「一緒に回らないか、って言われちゃってさ。ユイ――あ、俺の前の彼女の名前ね――は嫌がってたけど、あの背の高い子、しつこくって。デート中だって振りをしたら、諦めてくれるだろうと思ったんだよ」
「え……別れたのに?」
それなのに、何故そういう話の流れになるんだろう? あ、でも、肝心の人は嫌がっていたって今言ったわ。……ますますわけがわからない。
「そうだよ」
「それなのに、どうして?」
「長い話になるけど、いい?」
わたしが頷くと、鏡音君は説明を始めた。あの、ウェーブのかかった髪の子に、中学三年の時に「好きでした」と言われて、つきあい始めたこと。でも、お互い別々の高校に進学することになって、それが原因で一緒にいられる時間が減ってしまったこと。そうこうするうちにユイさんに別に好きな人ができて、高校一年の秋に別れたこと。そのままずっと会っていなかったけれど、今日ここでばったり再会したこと。
「俺も気まずかったし、ユイもそうだったと思うんだけど、あの友達の子がえらく空気が読めなくてさ。なんかユイ、新しい彼氏とも最近駄目になったらしくて。話の流れで俺たちがつきあっていたことがわかっちゃったもんだから、どうも、よりを戻させようと必死になっちゃったみたいなんだよね」
マルチェロとムゼッタを、周りが復縁させようとするようなものなのだろうか? さっきの子はムゼッタのような感じではなかったけど。そう言えば、ミミはあの時、会ったばかりなのに「あの二人はお互いに好きあっているのだから……」と言っていたっけ。
……わたしにはわからない。様子を見ただけで、相手を想っているのかどうかなんて。
「鏡音君の方は、それでいいの?」
「何が?」
「ユイさんのこと、まだ好きだったりとかしないの? マルチェロやマークは、別れてもまだ相手を想っていたりするけれど、そういうのは?」
もしそうだったら、むしろわたしの存在の方が邪魔だったかもしれない。わたしがいなければ、もっと話だってできたかもしれないし。
「別にそういうのはないよ」
鏡音君はあっさりとそう言った。わたしは何も言わず、視線を落とした。何を言ったらいいのかがよくわからなくて。
「大体、うまく行くとは思えないんだよ。俺とユイは、高校入ってからぎくしゃくしだしたわけで。問題原因がそのままなのに、勢いでより戻したって、また同じことの繰り返しになるだけだと思う」
わたしが黙ってしまったせいか、鏡音君はそんな説明を始めた。喋る声は、いつもと変わりないように思えるのだけれど……。わたしの希望的観測かもしれないし……。
「でも……」
「あのね巡音さん、俺、あの場から逃げるのに巡音さんを利用したわけ。未練があったら逃げるなんて行動取らないってば。むしろ俺に怒っていいぐらいだから、そんな風に思いつめた顔しないでほしいんだけど」
鏡音君は、今度はこんなことを言い出した。そう言われても……わたしの方には別に怒る理由がないし……。でも、あんまり暗い表情をしているのは良くないみたい。鏡音君に心配させちゃう。何か他に、話題ないかな。
「あの……鏡音君」
「何?」
「恋をするのって、どんな感じ?」
少し唐突な気もしたけど、わたしは、気になっていたことを訊いてみることにした。鏡音君が、呆気にとられた表情になる。
「オペラにもバレエにも、恋を扱ったものってたくさんあるんだけど……わたし、実感が無いからよくわからないの。恋をするのがどういう感じかって」
手に手を取り合って切々と愛の喜びを訴えたり、引き裂かれそうになって離れたくないと苦しんだり、相手の心変わりに心を痛めて涙をこぼしたり。舞台の上のそういう情景はたくさん見たけれど、その中にあるものがよくわからない。恋って、どういうものなの?
「初音さんとはそういう話をしないの?」
鏡音君はそう訊き返してきた。ミクちゃんか……。
「ミクちゃん? 少しはするけど、ミクちゃんもまだ誰かとつきあったことはないから……」
恋愛映画を見て「わあ、素敵……」と言っていることはあるけど、ミクちゃんも実際に異性とつきあったことはないから、深い話をしたことはない。というよりできない。
「初音さん、つきあった経験ないわけ?」
驚いた表情で鏡音君がそう訊いてきた。そんなに意外なのかな?
「ええ」
誰かとつきあっていたら、ミクちゃんの性格からいって、絶対にわたしに話してくれるだろうし。
「告白されることなんてしょっちゅうじゃないの? ほら、初音さんって目立つだろ。確か去年も今年も、学祭のミスコンで一位だったし」
ミクちゃんが告白されたこと? わたしが知る限りでは一度もないけど。なんで鏡音君はそう思ったんだろう。確かにミクちゃんは学祭のミスコンテストを二連覇してるけれど、ミクちゃんに交際を申し込みに来た人なんて、見たことがない。
「ミクちゃん、告白されたことなんて一度もないはず。前に言っていたもの。一度くらい、ドラマか漫画みたいな告白をされてみたいなあって」
でも自分の理想の王子様になってくれる人じゃなければ、つきあうのは嫌とも言っていたっけ。
「そういうわけだから、わたしの周りに、現実に恋愛した人っていなくって……」
「お姉さんは?」
鏡音君は、もっともな疑問を投げかけてくる。でも、ハク姉さんともルカ姉さんとも、そういう話をしたことはないのだ。そもそも、わたしのところは鏡音君のところと違って、会話が少ないし……。
「ハク姉さんは女子高だったし……ルカ姉さんは婚約してるし……」
「婚約者がいるんなら、恋愛したってことじゃ?」
「ルカ姉さん、お見合いなの」
だからルカ姉さんが神威さんに恋をしているのかどうかなんて、わからない。多分訊いても「神威さんはいい人だし、お父さんが選んだ人だし、私も嫌いじゃないから」と言われてしまいそうな気がする。
わたし、嫌な妹だな。こんなことを考えるなんて。
「…………」
鏡音君の方は絶句してしまった。やっぱり……一般的な話じゃないのよね、こういうのって。
「で、でも、婚約したってことは、相手の人が気に入ったんだろ?」
「お父さんが強く薦めてたから……わたしのところは三人姉妹だから、長女のルカ姉さんには婿を取って会社を継がせるって。神威さんなら、申し分ないって」
気がついたら話はまとまっていて、神威さんは度々わたしの家に来て、ルカ姉さんやお父さんと話をしたり、ルカ姉さんを連れて出かけたりするようになった。でも、わたしは神威さんと話をしたことがないので、将来義兄になる人が、どういう人なのかはよくわかっていなかったりする。
「繰り返しになるけれど、わたしの周りには現実に恋愛をした人っていないの。だから、こういうことを訊ける人がいなくって……恋って、どんな感じなの?」
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