レン君と一緒に家を出たわたしは、しばらくレン君の家に泊めてもらうことになった。その日の夜、レン君やお姉さんを交えて今後のことを相談した結果、わたしはレン君と一緒にニューヨークに行くことにした。レン君は最初からそのつもりだったし、わたしも異論はなかった。ただ、すぐにとは行かない。大学のことがあるし。お世話になった先生にも、ちゃんと話をしておきたい。
次の日から、わたしは準備に駈けずり回ることになった。大学に届けを出し、先生のところにも、挨拶に行った。先生は驚いていたけれど「巡音さんにはその方がいいかもね」と、最後には言ってくれた。
することは、他にもあった。お役所に言って婚姻届の不受理を撤回し、その場でレン君との婚姻届を提出したのだ。レン君には「順序が滅茶苦茶でごめん」と謝られたけど、わたしの抱えている事情が事情だから仕方がない。巡音の戸籍に入ったままだったら、またお父さんに何かされそうという不安に苛まれてしまうし。
「落ち着いたら、ちゃんとした式をあげるから」
「わたし、二人っきりでもいい」
十九世紀の、あの二人の詩人ように。正確には式をあげてくれる人はいたのだろうけど。あの二人は、こんな気持ちだったのかな。これでずっと一緒にいられるって。
「わたし……多分、死んでしまったとしても、レン君のこと、好きでいると思うの」
レン君は何も言わずに、わたしのことを抱きしめてくれた。
わたしには一つだけ、譲れないことがあった。ミクちゃんに、事情を全部話すこと。ミクちゃんに何も言わずに、日本を離れることはできなかった。レン君も同意してくれたので、わたしはレン君と二人でミクちゃんの家に行き、何があったのかを全部話した。さすがに、襲われたことは言えなかったけれど。
ミクちゃんはいつもと同じように温かくわたしを迎えてくれて、わたしの決意にも賛成してくれた。ミクちゃんがいてくれたから、わたしは辛い時期を乗り切れたんだと思う。……ミクちゃん、本当にありがとう。
そういったあれこれを全部終えた後、わたしはレン君と一緒にニューヨークへと発った。期待と不安の両方でいっぱいになって。わたしの気持ちを察したのか、レン君が手を握ってくれた。
ニューヨークに着いたわたしは、初めてレン君のお母さんに会った。はっきり言って、ものすごく緊張した。結婚前の挨拶とか何もなしで、いきなりわたしが来ちゃったんだもの。幸い、レン君のお母さんは、わたしを温かく迎えてくれた。
わたしはこちらの大学に編入した。学部や専攻は、以前と同じ。学費は、お母さんが渡してくれたお金を使った。当然だけど授業は全部英語なので、耳が慣れてくれるまでは大変だった。
大変だったのは、勉強のことだけではない。わたしは今まで、家事をやったことがほとんどなかった。料理と皿洗いだけはお母さんに教えてもらっていたけれど、掃除や洗濯はしたことがなかったのだ。あらためて自分が何もできないことを知るのは、気持ちのいいものではない。
でも、だからといって、逃げるわけにはいかないの。わたしはレン君や、レン君のお母さんにやり方を教えてもらいながら、必死で家事にも取り組んだ。何もできない足手まといになってしまうのは嫌だった。そうして諦めずに続けたおかげで、一年が経過する頃には、それなりにこなせるようになっていた。そうなると、少しずつ自信もついてきた。
わたしがニューヨークに来てから一年後に、レン君のお母さんが、アメリカ勤務が終わったとかで、日本に戻ってしまった。なので、わたしたちは二人で生活していくことになった。
日本にいるお母さんやハク姉さん、ミクちゃんとは、手紙やメールで連絡を取り合っている。ミクちゃんからのメールは、最近はミクオ君のことが増えてきた。それと将来のことも。お父さんの後を継ぎたいと、ミクちゃんはそう言っていた。
お母さんは、あの後お父さんと離婚した。わたしは知らされていなかったのだけど、お父さんはずっと外に女性がいたのだそうだ。ミクちゃんのお母さんに弁護士さんや探偵さんを紹介してもらい、お母さんは離婚にこぎつけた。あの家を出て、今はお菓子作りの教室を開いている。
ハク姉さんはお母さんと一緒に家を出て、今は専門学校に通っている。手に職をつけて独立するのだと、そう書いてよこしてくれた。
お父さんとは連絡は取っていない。ハク姉さんからのメールによると、お父さんはわたしが家を出たことに、長い間気づかなかったそうだ。お母さんが「リンは具合が悪くて寝込んでいる」ということにして、わたしが日本を出るまで時間稼ぎをしてくれたのだ。お母さんとハク姉さんが離婚のために家を出て、それでようやく、わたしも家を出ていたことに気がついたのだという。その時の様子はわからないけれど、きっと荒れたのだろう。実際お父さんは、わたしとハク姉さんに対し「親子の縁を切る。二度と戻ってくるな」と宣言したとのことだった。
……お父さんは本当に、変わらない人なのだと、その時思った。きっと、未来永劫そうなのだろう。それなら、もうそれでいい。わたしは、自分の人生を歩いていく。レン君と一緒に。
ルカ姉さんとも連絡は取っていないけれど、子供が生まれたらしい。お母さんは、ルカ姉さんのことをひどく心配していた。いつか、ルカ姉さんとも話せる日が来るのだろうか。
大学を卒業後、レン君はオフオフブロードウェイを中心に活動している劇団に入ることができた。収入は不安定だし大変だけど、それがレン君の「どうしてもやりたいこと」だったのだ。
一方でわたしはというと、日本にいるお母さんから、翻訳の仕事を紹介してもらうことができた。わたしが稼ぐことができれば、レン君はやりたいことに集中できる。わたしは片端から仕事を受けた。
レン君は今まで、わたしのことをずっと支えてくれてきた。レン君がいなければ、わたしは自分の夢や希望について考えることを放棄して、お父さんの言うなりの人生を送っていただろう。レン君と出会えなかったらどうなっていたのか、想像するだけで恐ろしい気持ちになってしまう。
だから今は、わたしの方がレン君を支える番だ。レン君の夢を叶えるために。
色んなことが、あった。
嬉しいことや、楽しいこと。悲しいことや、大変な思いをしたこと。本当に色んなことがあった。
でもいつも、レン君が傍にいてくれた。だからだろうか、あまり辛いと感じなかったのは。そんなことを考えながら、わたしは、いつものようにレン君に寄り添っていた。
観客席から、割れるような拍手が聞こえてくる。それはいつまで立っても、鳴り止まなかった。
「良かったわね! 大成功よ!」
「これなら、ブロードウェイ進出も夢じゃないぞ」
ついさっきまで舞台で歌っていた人たちが、わたしたちを取り囲む。みんな興奮で頬を上気させている。
「お客さんが待ってるぞ。ほら、アンコールに行った行った!」
レン君がそう言って、出演者を追い立てた。笑いさざめきながら、その場にいたみんなが舞台へと駆け戻って行く。少しずつ拍手が静まり、やがて歌う声が聞こえて来た。
「レン君、初めての演出作品の成功、おめでとう」
「それを言うならリンもだろ。初めての脚本なんだから」
そして、この劇団にとっては、初めてのオフブロードウェイ公演でもあるのよね。成功するかどうか不安だったけど、この拍手で全部報われた気がする。
翻訳の傍ら、少しずつ書いていた物語。それをレン君がみつけて、これを舞台で上演したいって言ってくれた。それで頑張って、普通の物語形式だったものをミュージカル用の戯曲に書き直した。ただ日本語で書いた物語だったから、英語に翻訳するために、こっちで親しくなった日英翻訳の人の手を借りなければならなかったけど。
「いつか……やれるといいな。この『ロミオとシンデレラ』を、ブロードウェイで」
レン君の言葉に、わたしは頷いた。それがレン君の夢であり、わたしの夢。わたしたちを結びつけてくれた『RENT』のように、この『ロミオとシンデレラ』がなってくれること。レン君は、わたしを強く抱きしめた。
アンコールが終わり、また拍手が聞こえて来た。そして、わたしたちを呼ぶ声も。レン君がわたしの手を、強く握ってくれる。そうしてわたしたちは、一歩踏み出した。スポットライトの当たる、舞台へと向かって。
ロミオとシンデレラ 最終話【笑顔と涙とわたしの人生】
これで、本編は完結です。
この長い物語におつきあい下さり、ありがとうございました。当初の予定では、もっと短くまとめるつもりだったのですが、思いの他構想がふくらみ、自分でもびっくりするぐらいの長編になってしまいました。
途中で自分でも完結させられるか不安になりましたが、こうやって最後まで書ききることができました。
なお、この後、ルカさんだけは本編でオチがつけられなかったため、彼女に関する外伝を書く予定です。
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