春待ち
このところすっかり穏やかになってきた気候に、休日だからとつい惰眠を貪っていた僕の部屋にそれは春の嵐みたいに何の断りもなく、こっちの都合なんてお構いなしに舞い込んで来た。
「レン。ねえ、レン…………」
ギシ、とベッドの上に体重が掛かる音。かすかな軋み。
「レン、起きて」
至近距離から聴こえてくる声は、鳥の囀りか蜜蜂の囁きかってくらい寝起きの頭には甘ったるく感じられる。触れられてもいないのに耳元がやけにくすぐったくて、僕は耐え切れずに瞼をこじ開けた。
そしてベッドの上に上半身を乗り出していた彼女の姿を見て、寝起きだっていうのに軽い目眩を覚えた。
「…………何て格好してるんだよ。リン姉さん」
そこにいたのは薄いキャミソールに白い太腿を見せ付けるような丈のホットパンツだけという、下着姿とほとんど変わらないような格好をした、僕の姉さんだった。
「別にいいじゃない。家の中なんだし」
「よくない。っていうか部屋に勝手に入ってくるなって何度言えば……」
……っていうかキャミソールの下に何もつけてないように見えるのは僕の気のせいですか姉さん。……いや気のせいじゃない。さっき前屈みになったときに、ささやかな膨らみを確認してしまった。
そんな格好で朝から思春期の青少年のベッドの上に乗っかるとか、嫌がらせ以外の何物でもないだろ……。
「レーン?」
そんなことを寝起きの頭で延々と考えていると、また至近距離まで顔を近づけた姉さんが僕の顔を覗きこんでいた。だから近いって。
「……で、何か用?」
「レン、今日は休みでしょ? 買い物に行かない?」
「嫌だよ。なんでこの年になって家族と買い物なんか……」
同じクラスの奴らに見られでもしたら恥ずかしいってだけじゃなく、その直後にやって来るだろう「お前の姉さん紹介しろ」コールが鬱陶しくて仕方ない。
「えー……。じゃあ一人で行こっと」
思ったよりもあっさりと引き下がってくれたことに安堵の息をついた直後に、姉さんの口から出た「一人で」という言葉にまた新たな不安が生まれる。
「……買い物って駅前のほう?」
ベッドから離れて部屋のドアノブに手をかけていた姉さんは、背後から聞こえてきた僕の声に、小さく首を横に振った。
「ううん。今日はね、最近できたショッピングビルに行こうかなって」
「それって西通りの?」
新しくできたショッピングビル以外にもビジネスビルや大型の電気店、それから週末には広場で何かしらのイベントが開催されているらしく、かなり多くの人で賑わっている場所だ。
「そう。さっきテレビでお店の紹介やってたの」
「…………やっぱり僕も一緒に行く」
「本当!? じゃあ準備するね」
リン姉さんは僕の言葉にぱっと花を咲かせたような笑みを浮かべると、レンも早くね、と楽しげな声を残して部屋から出ていった。
あんな無防備な姉さん一人で行かせたら、どんな危ない目に遭うか分かったもんじゃない。実際、ちょっとそのへんに出かけるだけでもナンパだの勧誘だのと声をかけられまくって、外で待ち合わせをしているときには時間に間に合った試しがないのに──…。
僕は寝癖のついた髪をかき上げると、まだ部屋の中に残っている甘ったるい空気を眠気と一緒に吹き飛ばすように、大きく伸びをした。
「わあ、もう春物が出てる」
ショーウィンドウの中のマネキンが着ている淡いピンクのワンピースを見て、姉さんは小さな子供みたいにガラスに手をついて、それから僕のほうを振り返った。
「ふぅん……」
「もう。もうちょっと楽しそうな反応してよ」
無茶言うなよ。男が春物のワンピースにどんな反応を示せっていうんだ。
それにさっきから僕らに……、というか姉さんに注がれている視線が気になってそれどころじゃない。男連れで歩いてたってこれなんだから、心配するなってほうが無理な話だ。
同年代の女の人と比べると小柄なほうだけど、どこもかしこも柔らかくて抱き心地の良さそうな身体。あまり日に焼けることのない肌は、日差しの下にいると透けて見えるんじゃないかってくらい白くてきめ細かい。
今にもこぼれ落ちそうなほど大きな瞳も、薄くグロスを塗っただけで充分に艶のある赤い唇も、白い肌に影を落とすほど長い睫毛も──…、すべてが最初から完全に計算されたみたいにそこにあって、じっとしていればそれこそショーウィンドウの中に入っていても違和感がないんじゃないかと、本気で思う。
それでいて人形のようだとか作りものめいていると感じることが少ないのは、いつまで経っても小さな子供みたいに無邪気にはしゃいだり感情をすぐに表に出してしまう性格が、その外見以上に強い印象を与えるせいだろうか。
そんなことを考えている間にもまた、僕の肩を通過して隣にいる姉さんへと熱のこもった視線が向けられる。ちょうど真横を通り過ぎるときに思いっきり睨みつけてやると、ようやく僕の存在に気付いた男は不自然に視線を逸らして、早足にその場から遠ざかっていく。
隣で交わされている無言の牽制なんて気付きもせずに、さっきからずっと機嫌のよさそうな笑みを浮かべている姉さんに、ただでさえ苛立っていた気持ちがさらに悪化して、刺を含んだ言葉が口をついて出てしまう。
「……何がそんなに楽しいんだか」
「だって。さっきから通りすぎる女の子達、みんなレンのこと見てるんだもの」
「──……は?」
「気付いてなかったの?」
……言われてみれば。少し前から女の子の囁き交わすような声や、視線を感じていたような……。視線のほうはてっきり姉さんに向けられているものとばかり思っていたけど──…。
「鈍感ね」
「リン姉さんにだけは言われたくないよ。……それで、何で僕が見られてると楽しいんだよ」
自分は姉さんが見られてるって思うだけでもこんなに気分が悪いのに。不公平だ。
「だって」
カツン、と靴の踵が硬質な音を立てる。ショーウィンドウから身体を離して軽やかなステップを踏むように足を踏み出すと、姉さんが通った場所だけがそれまでとはまるで違う色がついたように見える。
「あたしのレンはこんなに格好いいのよって、見せびらかしてるみたいで気分がいいの」
「あた…………」
落ち着け。あたしの「弟」だ。姉さんに限っては何かを期待するだけ無駄だ。
……いや、姉相手に何を期待してんだって話だけど。
「こうして一緒に歩いてると、恋人同士に見えるかな?」
「っ…………!!」
追いうちをかけるような言葉に、僕は動揺を悟られないように思い切り顔を逸らし、可能な限り冷ややかな声で──、
「……姉弟にしか見えないんじゃないの」
「そっか…………」
すると姉さんは残念そうな顔で俯いて、そのまま黙り込んでしまった。よく見ると唇の端を噛んでいるのが分かる。
ああもう、そんな顔するなよ。……くそ。
「リン、姉さん」
「──…えっ?」
空いていたほうの手をいきなり掴んできた僕に、姉さんは一瞬だけびくりと肩を震わせて、それから僕の顔をじっと見た。悲しくなるくらい綺麗な瞳。
「これなら姉弟には見えないだろ?」
いくら冷静を装ってたって、これだけ顔が熱かったらバレバレだろう。
だけど知るもんか、そんなこと。
「…………うん」
隣に視線を向けると、そこには本当に嬉しそうに微笑んで僕の手を握り返している姉さんの姿。その顔を見ていると、照れだとか葛藤だとか、色んなものが一瞬でどうでもよくなってしまった。
重ねているだけだった手はいつの間にか指まで絡ませて、他人から見れば恋人同士にしか見えないようになっていた。
たとえそれが事実とは違っているのだとしても、せめてこの時だけは。この手が離れるまでの間は、そうふるまっていたかった。
「レン、大好き」
「…………あっそ」
僕もだよ、とは。さすがに言えなかった。そこまで子供じゃないんだ。
もっとも、姉さんだってとっくに子供じゃないはずなんだけど。
End.
姉さん姉さん! リン姉さん!
前々から書きたくてたまらなかった姉弟なレンリンです。恋愛関係というよりはシスコンとブラコン。
ちなみに姉さん萌えはこんなものでは治まらないので、まったく違う設定でもまだまだ書きます。きっと書いてる人間が一番楽しい。
そして思春期なレン君視点を書くのが楽しすぎてどうしようかと思った。君がシスコンなことはよく分かった、分かったからちょっと黙っててくれ……な気分に。
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