2.
「…………そうだけど」
僕は少し押され気味になりながら、エレベーターの方向からものすごい勢いでやって来た女の子の質問に答える。
「わぁ、すごいすごい! あっ、私はグミって言うっス。今売り出し中の歌手で……ってそんなことはどうでも良くて!」
「ハァ」
ミク姉よりも明るい黄緑の髪に、奇抜なデザインのオレンジの服が目に眩しかった。そして何より、けたたましかった。
「私、デビュー当時からの鏡音ファンなんス。あのあの、サインとか書いてもらっても……」
「ああ、別にいいよ。そのくらい」
「やった!! あ……、スミマセン。お話のところを……」
そこでようやく僕と話していたミク姉の存在に気がつくと、済まなそうに深々と頭を下げた。
「あ、わたしのことは気にしなくていいよー。そろそろスタジオに戻らなくちゃだし」
ミク姉はそう言って時計に目をやると、「あと五分くらいかな」と呟いた。その顔を見て、グミと名乗った女の子は目を大きく見開いて両手を自分の頬にあてた。
「って、初音ミク先輩まで! あわわわ……!」
それ以上騒がれても困るので、僕は素早くサインを書き終えると、ショックを受けている女の子の眼前に差し出した。
「はい、できた」
「うわわ、ありがとうございます! 家宝にするっス!」
「んな大げさな……」
僕は小さく息をついてからベンチの上に置いたままだった紙コップを手に取る。溶けた氷のせいで、水の中にコーヒーが浮かんでいるような有様だった。こりゃダメだ。
「そういえばもうひとりの鏡音さんは、最近テレビとかで見かけないっスよね」
「!」
「グミちゃん、それは──…」
気遣うように視線を向けてくるミク姉に対して、僕は不思議なくらいに冷静だった。まるで、他人事のように。
「リンはもういないんだ」
「え?」
「死んだ……っていうのも変か。もともと製品上の不具合があったらしくてね、一年くらい前にいなくなったんだ。もう二度と起動することはないんだ」
「そ…そう、なんスか。ごめんなさい。私、何も知らなくて……」
心の底から申し訳なさそうに俯いている女の子に、僕は小さく笑いかけた。
「気にしないでよ。ファンがショックを受けないようにって、無期限休止っていう形で事実を隠してるわけだし……。あ、このことは……」
「誰にも言わないっス!」
「ありがと」
「あの、サインありがとうございました。これからもずっと応援してます。頑張ってくださいっス!」
「うん」
お決まりの励ましにお決まりの受け答えを交わしてから、その女の子は奥のスタジオへと小走りで向かった。
「…………レン君は、」
足音が聞こえなくなってから少しして、ミク姉がぽつりと呟いた。
「何?」
「ううん。そろそろ戻らなくちゃ。また今度、時間のある時にゆっくりお茶でもしよ?」
「うん。メールするよ」
---------------------
次の日、僕は言われたとおりにボーカロイドの定期メンテナンスを行っている研究所を訪れていた。
「やっと来たな。まったく、月に一度は来るように言ってるのに……、前に来たのは半年以上前じゃないか」
「すんません」
たいして悪く思っていないような声で僕が謝ると、研究所のスタッフは嫌味っぽく長い溜息を吐き出した。
「君の相方があんなことになって、生きる気力が沸かないのは分かるが……。そういえばあの後一年くらいは活動を休止していたから、今度出す予定の曲が復帰作になるのか」
「そう……ですね」
「君の実力ならきっとひとりでもやっていけるだろう。頑張りなさい」
「……はい」
そういう問題じゃねえよ、クソジジイ。
これだからメンテナンスになんて来たくなかったんだ。生まれたときから僕らのことを知っているような場所になんか。
スタッフの指示に従って服を脱いで裸になると、僕は精密検査の機械が置いてある隣の部屋へと向かった。
「あれ」
その途中で、ガラスの壁の向こうによく見慣れた姿を発見して、僕は足を止めた。
「何だ、こんなところまで来たのか?」
ガラスの向こうのそいつは、明るい日差しの下でもやっぱりしかめっ面。何に対してそんなに不満を持っているんだか。
「ジーニー」
僕にしつこく願いを尋ねてくる以外は何も話さないそいつに、勝手につけた名前を口にする。どんなことでも願い事を叶えてくれるランプの精。
……ああでも、こいつは願い事を訊いてくるだけで、叶えてくれるとは一言も言っていないのか。
「今日は、ヤな事があったよ」
他の誰にも言ったりはしないけど、お前にだけは聞いてほしいんだ。こんなつまらないことで落ち込んでるなんて情けないから僕たちだけの秘密だぜ、と念を押しながら。
ジーニーはそんな僕を見て、励ましたり慰めたりする素振りすら見せずに、ただじっと僕の顔を見ているだけだった。それが僕には何より嬉しかった。
あいかわらずのしかめっ面。だけど今日は少し、疲れているようにも見えた。
「……の、願いは」
ガラスの向こう側にいるというのに、声は少しも遮断されることなく僕の耳まで届いた。
「君の願いは?」
いくら訊いたって無駄だよ。何かを願うことすら出来なくなってしまった僕には何も答えられるはずがない。
だから、もしもお前がランプの精なら、
「残念ながらハズレのご主人さ」
だけどお前は僕の傍にいてくれるんだろ? 今までと同じようにずっと。
なあ、一人ぼっちのジーニー。
お前は僕とよく似ているから、どこか憎めないんだよ。
「遅かったわね。そんな格好で動き回っていたら他のスタッフが驚くわよ?」
部屋の中で待っていた女性のスタッフは、僕の姿を見るなり保護者のような口調でそう言った。
「ここは男性のスタッフがほとんどなんだから……」
「別にいいのに。生身の身体ってわけじゃないんだから、気にしなくても」
「それでもよ。子供だった昔と違って、身体だってそれなりに成長してるんだから」
「不便だなぁ。ボーカロイドなのに、人工知能の成長に合わせて身体のサイズまで変化するなんて」
こんな仕組みを考えた奴はよっぽどの悪趣味か、変態に違いない。いやどっちもか。
「……少し前までは男の子とそう変わらなかったのに」
膨らみかけた胸の頂きを、それから枝のように細く伸びた手足を見て、彼女はどこか寂しそうな顔をした。
「あなたが彼の代わりに生きていくことを決めたなら仕方がないわ。けど、あなたの身体はこうやって、確実に変化しているのよ。だから無理だけはしないで」
僕は俯いたまま、気味が悪いくらい真っ白な自分の身体を見下していた。
「リン」
もうひとりの鏡音レンがいなくなったのは、今から一年とちょっと前。僕が……、鏡音リンの人気が出てきてその歌と名前が広く世間に認知されるようになると、それと反比例するように彼の存在は薄まっていった。なぜかは分からなかった。
それがボーカロイドシリーズを重ねていくうちに製品上に発生したバグで、僕らのようにひとつの製品にふたつの人格が存在するボーカロイドにのみ発生する現象だと分かったのが、レンがもう歌うことすらろくに出来なくなっていた頃だ。
片方の自我が強くなるほど、もう片方の自我は弱まっていって、いずれは消滅してしまう。研究所の人は、はっきりとした原因は分かっていないと言っていたけれど、誰よりも近い存在だった僕が分からないはずがなかった。
鏡音リンの存在が強くなることで、鏡音レンは食われてしまったのだ。その存在も、ボーカロイドとしての価値も。彼自身の居場所さえも。
分かっていたのに、止めることができなかった。僕が代わりに消えれば、彼は助かったのかもしれないのに。
そして彼が完全に消滅したとき、僕は鏡音リンの存在を殺した。
もう二度と生きかえることのないように、誰かの存在を食らってしまうことのないように、深く、深く。
「ただいま」
狭く薄暗い部屋に戻って来た僕は、おそらく朝と同じ場所にいるだろうそいつに聞こえるように言った。
「はー…。疲れたよ、ホント」
上着を脱ぐことも背中からリュックを降ろすことも面倒で、そのまま床に敷かれたままだった布団の上に倒れ込む。
「……お前はいつも僕と同じ格好をしてるね。僕が寂しくないように?」
皺くちゃになるのも構わずに、上着を羽織ったままで横になっているジーニーに、僕はいつになく饒舌に語りかける。
「けど、もう真似事はやめてもいいよ」
お前がやめたくないって言うなら、別にやめなくたっていいけど。
「お前は強いんだから、一人でだって生きていけるさ」
──…だから、そう。
「誰かを守れる、強い奴になれよ」
お前がしてくれたように、疲れたときには話くらいは聞いてやるからさ。
そして僕もまた、傍にいてくれるうちはお前に縋っちゃうんだろうな。
なあ、一人ぼっちのジーニー。胸を張って生きていこうぜ。
僕は強い口調で呼びかけて、にっと笑った。そいつもまた、曇りのない笑顔を浮かべていた。
なんだ、しかめっ面だけじゃなくて、そんな顔もできるんじゃないか。
お前がいてくれるから、こうして強がりながらでも生きていけるんだぜ。だから。
鏡の前に、今日も立つよ。
End.
164さんの『ジーニー』が好きすぎて、最初に曲を聴いたときの印象だけで勝手に色んな解釈と設定をつけていったらこんな感じの捏造甚だしい話ができました。
ちなみに本家の曲の解説は(ランプの精の部分以外は)まったく違うものなので……。あくまで勝手な解釈を加えた二次創作として読んでいただけると助かります。
あとボーカロイドの設定も、近い将来こんな感じになったら面白いなという捏造設定がほとんどなので信用してはいけません。(しねえよ)
リンちゃんの仮名をルンにするかどうかで小一時間悩んだことは内緒なのです。
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