ジーニー
「君の望みは何なんだ?」
何の断りもなく僕の目の前に現れたそいつは、開口一番にそんなことを抜かした。
「なあ、愛か?」
「名誉か?」
どっちもいらないよ。
何も望みたくなかった。何も考えたくなかった。
望んだものの代償に、失ったものの大きさを悔やむくらいなら、もう僕は二度と何かを望んだりしないだろう。
どうせ本当の望みだけは、叶えられるはずがないのだから。
「お前の望みは何なの」
今度は僕が逆に聞きかえすと、そいつは別段困ったような顔をするわけでもなく、ただしかめっ面を浮かべていた。
「しかしまあ、お前の望みは何だ? なんて、あれみたいだな」
あれ、と言いながら人差し指を持ち上げると、そいつも僕とまったく同じ動作をして見せた。
「ランプの精」
「ううん…………」
窓の外からかすかに聞こえてくる鳥の鳴き声に、僕は貼りついた瞼をゆっくりと押し上げた。
まだ眠い。睡眠は充分すぎるくらいに取っているのに、眠たくて仕方がない。
黒い遮光性のカーテンは外の光をほとんど漏らすことはなく、電気を消した部屋の中にいるとまだ夜か日の昇っていない時間帯のような気がする。
しかし時計に目をやると、短いほうの針はすでに昼に近い時間を指している。昼から仕事が入っていることを思い出した僕は、砂袋みたいに重たい身体と頭を必死に持ち上げるようにのろのろとした動きで布団の中から這い出して、出かける準備をはじめた。
小さなリュックに必要なものだけを放りこんで、五分足らずで準備を済ませて出かけようとしている僕のすぐ傍で、そいつはあいかわらず不景気そうな面をして僕のほうをじっと見つめていた。
この世界のすべてに見放されている──あるいは見放しているのか──、そんな顔。割と整った顔をしているのにもったいない。
「はは。ひどい顔だな、お前も」
僕がおかしそうに笑うと、そいつもまた笑った。ちっとも面白くなんかないような顔をして。
「よし、じゃあ行ってくるよ」
ほとんど重さを感じないリュックを肩にかけると、僕はひとり言のように小さな声でそう呟いて、狭くて薄暗い部屋を後にした。
『──お疲れ様。次回のシングルに収録される分はこれで終わりだな』
「はい」
ボーカロイド専用のスタジオで歌の録音をしていた僕は、やけにごてごてしたヘッドフォンを外して、ブースの向こうに座っている相手に視線を向けた。
『マスタリングが終わったらサンプル送るから、それまでは少しゆっくりするといい。あと、メンテナンスにもちゃんと出るように』
「やだなぁ。僕、あれだけは嫌いなんだよね」
『そう言うなよ。何か起こってからじゃあ遅いんだ』
「はーい」
僕が適当な返事をすると、ガラスの向こうにいる相手は一瞬何かを言いかけて、だけどそれ以上は何も言わずに口をつぐんだ。
「わあ、ひさしぶりだね!」
スタジオから出て少し行ったところにある、自販機とベンチがあるだけの簡易な休憩所で紙コップのコーヒーを飲んでいると、別のスタジオから出てきたばかりのミク姉がやってきて、僕の顔を見るなり満面の笑みを浮かべた。
「ミク姉。そっちもレコーディング?」
「うん。今度コンサートがあるから、その時に発表する新曲をね」
「ふぅん。やっぱすごいな、ミク姉は」
ランキングや公共の電波に乗るようになってからその特徴的な歌声が少しは浸透してきたとはいえ、ボーカロイドという特異な存在でありながら、人間のアイドルと引けをとらないくらいに絶大な人気を得ているのは僕らボーカロイドの中でも「初音ミク」くらいのものだ。
そんなミク姉に、僕は憧れを抱く反面、ずい分と手の届かない存在になってしまったんだな、と一抹の寂しさを覚えていた。
「そういえば今度新しくシングル出すんだよね?」
「僕のソロシングルなんてそんなに注目浴びてないよ。それに……」
僕は何かを言いかけて、途中で自分が何を言おうとしているのか分からなくなってしまった。それに……何? 喉元まで出かかった言葉がそこで消失してしまって、訳の分からない気持ち悪さだけが残った。
気まずい沈黙に耐えきれなくなったのか、今度はミク姉が口を開きかけた瞬間──。
「ああっ! もしかしてあなた、鏡音レンさんっスか?」
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