廊下を走ってはいけない。それはわかっている。だが、今の俺にそんなことを気にしている余裕は無かった。校舎の出口に向かって走る。巡音さんの性格上、寄り道するとは考えにくいから、この途中にいるはずだ。校舎の外に出てしまっていたとしても、校門の辺りで迎えを待つだろう。
下駄箱のところまでいくと、見慣れた後姿が見つかった。ああ良かった。
「良かった……まだいたんだ」
「え……?」
巡音さんがびっくりした表情で振り向いた。
「……鏡音君、どうして?」
「勝手に帰らないでくれよ」
俺の言葉に、巡音さんはうつむいて視線を伏せた。
「……ごめんなさい」
いや、別に謝ってほしいわけじゃ……。参ったな。そもそも、演劇部の連中が押しかけてきたせいで、遠慮しちゃったんし。
「でも、わたし、部外者だし……あの場に残っていたらおかしいかと思って」
巡音さんの人見知りする性格を考えると……追い払うべきだったな、あいつら。誰かが「で、この人はなんでここにいるの?」なんて訊こうものなら、巡音さんはひどく傷ついただろう。俺の方が頼み込んだのに。
「そんな気回さなくていいから。押しかけてきた向こうが問題なんだし」
巡音さんはまだ下を向いている。……気にしてるんだな。うつむいた肩が微かに震えている。
……不意に、目の前の細い肩を抱きしめたい衝動にかられた。巡音さんの身体の柔らかさや温かさは知っている。何せこの前……って、俺、今、何を考えたんだ!? そんなことしたら、巡音さんが怯えるだろ!
「でも……部活があるんでしょう?」
自分のよくわからない思考に自分で突っ込みを入れていた俺は、巡音さんのその言葉で我に返った。
「いやだからさ、部活動を円滑に進める為には、次の作品を早く決定することが大事なんだよ。でもって、内容をちゃんと理解していない状態で、上演の準備なんてできないだろ。だからこの話し合いは大事なことなんだ。なんか、グミヤに上手く伝わってなかったみたいで、妙なことになっちゃったけど」
……実は、半分ほど自分でも何を言っているのかよくわからなかったりする。
「そういう話なら、演劇部の人たちとした方がいいと思うの。何もわたしじゃなくても……」
クオと同じようなことを巡音さんは言い出した。いや全然違うんだよ。他の奴に訊いたって、多分俺が求めているような答えは返って来ない。
「巡音さんじゃないと駄目なんだよ」
「どうして?」
「……どうしても」
我ながら、答えになってないな。とにかく、ここで逃げられたら困るんだ。
「あの、わたしさっき、お迎えを頼んじゃったの。だからそんなに時間無いけど……それでもいい?」
巡音さんは、おどおどとそう言い出した。う……もっと早く教室を出りゃ良かった。クオの奴め。
「……いいよ」
短時間でも話せないよりましだ。
「じゃ、中庭でも行こうか」
あそこなら座れるしな。巡音さんが頷いたので、俺たちは連れ立って中庭へと移動した。そこにあるベンチに腰を下ろす。
「……話を整理しようか。イライザは愛がほしい。だから愛をくれない教授ではなくフレディを選んだ。けど、フレディはヘタレで、イライザを幸せにできるような甲斐性があるとは思えない。そういうことだったよね」
「……ええ」
巡音さんは頷いた。
「一方、教授はガキだから、面倒を見てくれる人が本当は必要。けど、優秀すぎる上にプライドが高いから、並のレベルの相手だとたたき出されてしまう。イライザは頭がいいから、教授が相手でもやりこめることも可能で、教授の相手としては理想的。でも、教授は変人だから気持ちを素直に口に出せない」
俺がそういうふうにまとめると、巡音さんはまた考え込んだ。
「わたしは、イライザが選ぶのはフレディだと思う。魂を手に入れたガラテアは、もうピグマリオンのものじゃないのよ」
……そんなに教授が嫌なのか? なんだかまたいらいらしてきた。
巡音さんは、頭上の空を憧れるような瞳で見上げている。
「だってもう自由だもの。どこへだって飛んでいけるわ」
うん? あれ? 何か気になるな……。
「けどさあ、やっぱりフレディじゃなくていいんじゃない?」
「どうしてそんなにフレディが嫌なの?」
「ヘタレの役立たずは嫌いなんだよ」
そう答えてから、俺はあることに気がついた。
「巡音さん……フレディと一緒になったら幸せにはなれないよ」
「え……どうして?」
「巡音さん、フレディのことを『シンデレラ』における王子のようなものだって言ったよね。でも、作者の意図がそうなら……もっといい男にするんじゃない? ヘタレの役立たずじゃなくってさ」
別にもっとできる設定でも問題はないはずなんだ。なのにあんなボンクラにしたってことは、浮わついた感情で相手を決めるなって意味なんじゃないのか?
「で、でも……じゃあどうして、フレディを選ぶエンディングなの?」
うーん、そう来たか……。けど、物語が常にハッピーエンドで終わるとは限らないよな。どこぞの映画監督だって……。
「一見ハッピーエンドに見えて、実のところそうではない……そういうラストを演出したかったんじゃない?」
この戯曲、何気に毒気、強いもんな。その可能性も充分あるんじゃないだろうか。
とはいえ、俺としてもすっきりしないんだよな。『マイ・フェア・レイディ』になった時、帰って来る結末にしたのは、その辺りが影響してるんじゃないだろうか。客が入らないと困るし。
「けど、大掛かりな舞台になると、そういう毒気って受けないんだよね。だからミュージカルにする時に、結末を書き換えたんじゃないかな」
そこまで喋って、俺は、巡音さんが今にも泣きそうな表情をしていることに気がついた。
「あの……巡音さん? 大丈夫?」
「ごめんなさい。イライザのこと考えていたら、のめりこみすぎちゃったみたい」
……何というか、すーっと物語の世界に入ってしまえるんだな。ちょっと羨ましいかもしれない。俺だって本を読んだり映画を見たりして、その世界に没頭することはあるけれど、こんな風になることはない。
「結局、イライザに幸せは来ないのかなと思っていたら、悲しくなってきちゃって」
うーん、そういう風に考えるのか。俺としては物語の結末が不幸でも仕方ないとは思うけど……。
「幸せ不幸せなんて気の持ちよう一つなんだからさ。フレディを選ぶにせよ教授を選ぶにせよ、イライザの頑張り一つで案外何とかなるかもしれないよ。どうせそこから先は書かれてないんだし」
巡音さんを元気づけたくて、俺はそう口にした。実際のところ、フレディを選んで欲しくはなかったりするけど。これ以上巡音さんを落ち込ませたら、確実に泣かせてしまう。それだけは避けたい。
「……ありがとう」
ちょっとは元気になってくれたのかな?
「それで、結末のことだけど……」
俺が結末についてもう一度話をしようとした時だった。巡音さんの携帯が鳴り出した。げ……これって、多分……。
「ごめんなさい、携帯が鳴ってるの」
巡音さんはそう言って、鞄から携帯を取り出した。表示を見たその表情が、さっと曇る。
「……お迎え?」
俺が訊くと、巡音さんはすまなそうな表情で頷いた。
「ええ。……ごめんなさい、話の途中なのに。でも、わたし、もう帰らないと」
色々と無理を言っているのはこっちだ。
「いや、いいよ。『ピグマリオン』のこととか、今日のこととか、色々助かった」
「あの……鏡音君、明日は時間ある?」
巡音さんの方からそう言い出したので、俺は驚いた。確かにまだ結論は出てないから、俺としてもまとめたいが……明日は学校は休みだ。
「巡音さん、明日は第二土曜だから、学校は休みだよ」
基本的に土曜も授業はあるが、第二土曜だけは休みってのがうちの学校のシステムだ。巡音さんがしまったという表情になる。
「俺としては、外で会って話してもいいけど……巡音さんは大丈夫?」
明日は部活も無いしな。でも、巡音さんは俺と違って色々忙しいんじゃないだろうか。
巡音さんは俺の前で、ためらいがちに頷いた。いいってことだよな。
「……どこで会うの? また鏡音君の家とか?」
あ、まずい。姉貴は土曜は仕事だ。姉貴がいない時に、巡音さんを家にあげるわけにはいかない。
「ごめん、俺の家は無理。姉貴は土曜は仕事なんだよ。あれでも一応俺の保護者だから、姉貴の留守中に勝手にお客さん呼ぶわけにはいかなくって」
姉貴のいない時に巡音さんを家にあげたなんてバレたら……下手をすると半殺しにされるな。
「鏡音君、柳影公園って知ってる? 大きめの都立公園なんだけど」
「知らないけど、調べられると思う。そんな大きい公園なら、簡単にわかるだろ」
ネット検索で大抵のことはわかる世の中だ。携帯で簡単に地図も見られるし。行くのはそんなに難しくないだろう。
「そこがいいの?」
「……ええ。その公園、ボート乗り場があるの。そこの前に朝の十時でいい?」
柳影公園のボート乗り場ね。
「わかった。じゃ、朝の十時にそこで待ってるよ」
「ありがとう。それじゃあ、わたしはもう行かなくちゃ」
それだけ言って、巡音さんは去って行った。……なんか妙なことになったけど、明日も話せるんだからよしとするか。
巡音さんと別れた後、俺は部活に戻った。演劇部の連中はよってたかってあれこれ訊いてきたが、適当な返事をしばらく続けていると、うんざりしたのか何も訊いて来なくなった。意外と使えるな、この手。
やがて部活が終わり、着替えて帰り支度をしていると、クオが不機嫌そうに俺に話しかけてきた。
「なあ……なんであの子なんだよ」
「何の話だよ」
何が言いたいのかがよくわからず、俺はクオに尋ね返した。
「四月の公演のことだよ。なんで巡音さんが相談相手なんだ?」
なんだよ、俺の決断に文句があるのかお前は。
「他に文学に詳しい知り合いがいないから」
「お前の姉さんは?」
あのなあ。俺の姉貴がどういう人間か知ってるだろうが、お前。
「姉貴に相談すると、プロレタリア文学とか、そういう変なのを薦めて来るんだよ。労働者が暴動を起こす話なんか、新入生歓迎公演でやれるわけないだろ」
「だからってラブコメか?」
結局不満はそこか。
「明るい話にしろってのがグミヤの注文なんだよ」
「俺がどうしたって?」
やりとりを聞きつけたのか、グミヤが割って入ってきた。
「グミヤ、クオに説明してくれよ。クオの奴、俺の決定に不満があるみたいで」
「四月の公演でやる演目の話か? 俺もお前も文学には縁のない人間だろ。他の奴もそうだしさ。一番詳しいのがレンなんだから、レンに任せるのがベストなんだよ」
「だからって部外者に相談することは……」
「そのレンが、さっきの子を相談相手に選んだんだってんなら、その判断は尊重するもんだろ」
なんか回りくどくないか、その説明。クオはというと、未だに不満そうな表情をしている。
「……ラブコメってのが気に入らない」
そこまでラブコメを嫌わなくてもいいじゃないか。それに、『ピグマリオン』は、一筋縄じゃいかない毒気のある話だってのに。
「クオ、不満に思ってんのはお前一人ぐらいだぞ」
「グミヤ、お前はいいのかよっ!」
「文学作品読むなんて俺のガラじゃないしさあ。『マイ・フェア・レイディ』でいいよ」
駄目だこりゃ、とでも言いたげな表情で、クオはグミヤを見やった。そこへグミが駆け寄ってくる。
「グミヤせんぱ~いっ! か~え~り~ま~しょ~っ!」
そう叫ぶと、グミはグミヤの首に勢いよく飛びついた。……つくづく、こいつのノリにはついていけない。
「じゃあな。ああ、そうだ。クオ、どうしても嫌だって言うんなら、一週間以内に『これがやりたい』っての、見つけて来い。そうしたらもう一度話し合いをやるから」
グミが首にしがみついたまんまの状態で、グミヤは部室を出て行った。……器用な奴だ。
……俺も帰るか。
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