鏡音君のお姉さんが作ってくれたパスタは、とても美味しかった。鏡音君はああ言っていたけど、多分謙遜していたのだろう。
そのお姉さんは、わたしのお弁当箱のおかずを「美味しい」と感激しながら食べていた。鏡音君がやや呆れた表情で、そんなお姉さんを見ている。
ハク姉さんの先輩ということは、ルカ姉さんとハク姉さんの間ぐらいの年齢ってことよね。でも、全然感じが違う。賑やかだし、よく喋る。鏡音君との食事中のやりとりを聞いていて思ったのだけれど、わたしはルカ姉さんとも、ハク姉さんとも、あんな風に話をしたことがない。
お姉さんは食べ終えると、空になった食器を下げにキッチンに行った。わたしは、鏡音君に訊いてみることにした。
「鏡音君のお姉さんって、いつもあんなに賑やかなの?」
「姉貴? まあね~。大体いつも、うるさいぐらいよく喋るよ」
そこへ、お姉さんが戻って来た。飲み物のお代わりが乗ったお盆を手に持っている。
「はい、どうぞ」
「……ありがとうございます」
わたしはカップを受け取って、口をつけた。
「ねえ、リンちゃんって、今の学校は、中学と高校、どっちから?」
不意に、お姉さんがそんなことを訊いてきた。わたしの通っている高校は、中高一貫の進学校で、お父さんの卒業した学校でもある。そしてわたしは中学の時から、今の学校に通っている。
「中学からです」
「ふーん、知ってるだろうけど、レンは高校からなのよ。やっぱり、編入と持ち上がりって、何か違いとかあったりする?」
そう言われても、わたしにはよくわからない。今までそんなことを、気にしたことがなかったし。それに、鏡音君が高校からの編入組であることも、今聞いて知ったぐらいだし……。
「ちょっとわかりません……」
「中にいるとわからないものかしらね」
お姉さんはそんなことを言っている。鏡音君が割って入った。
「姉貴、何だってそんなことを訊くわけ?」
「ただの好奇心よ」
それが、お姉さんの答えだった。……今の答え方、鏡音君とそっくり。顔は似てないけど、こういうところは似てるんだ。
わたしも他の人から見ると、どこかしら、ルカ姉さんや、ハク姉さんに似てたりするのかな……。今ひとつピンとこないのだけれど。
「あんまり質問責めにすると、巡音さんが困るだろ」
「リンちゃん、困ってる?」
「え……いいえ」
わたしは首を横に振った。これくらいなら、平気だ。答えられないのがちょっと心苦しいけど……。
「ほーら、こう言ってるじゃない」
「それは、巡音さんが姉貴に対して気を使ってるんだってば。……巡音さん、姉貴に訊きたいことあるんだったらなんでも訊いていいよ。巡音さんばっかり答えるのは、フェアじゃないから」
鏡音君は、今度はそんなことを言い出した。……訊きたいこと? わたしは、お姉さんの方を見た。明るい笑顔だ。
「あの……」
「うん、何? スリーサイズと体重以外だったら何でも訊いていいわよ」
訊いても、大丈夫かな……?
「……鏡音君から聞いたんですけど。お姉さんが、『ラ・ボエーム』のロドルフォのことを、ヘタレだって言っていたって。それで……」
そこまで言ったところで、お姉さんはくるっと鏡音君の方に向き直った。
「ちょっとあんた、リンちゃんになんてこと言ったの!?」
「話のネタにちょうどよかったから、つい……」
「ついじゃないわよついじゃ! 何考えてるの!?」
「だって本当のことだろ。姉貴が酔っ払ったあげく、ロドルフォをヘタレの甲斐性なしって怒鳴りまくったのも、脚本にケチつけまくったのも」
「だからってハクちゃんの妹にそんなこと、言わなくてもいいでしょうがっ!」
「その時は、巡音さんのお姉さんが姉貴の後輩だなんて知らなかったんだよっ! わかるかそんなことっ!」
鏡音君とお姉さんは喧嘩を始めてしまった。……どうしよう。こんなことにするつもりじゃなかったのに。
わたしが困っていると、不意に、鏡音君とお姉さんは、言い争うのを止めた。
「あ……えーと、その……」
「ああ、気にしないでリンちゃん。定例の姉弟喧嘩だから」
そう言われてしまった。え……でも……。
「で……『ラ・ボエーム』の話ね。確かに言ったし、今でもそう思うわよ。あの主人公はどうしようもないヘタレの甲斐性なしだって。だって、生活力は無いし、つまんない理由で恋人を捨てるし――くだらないこと画策してる暇があるんなら、バイトして薬代の一つでも作ればいいのよ――最後の時は恋人の手すら握ってあげられないんじゃあねえ。ヘタレとしか言いようがないわ」
「あの……すいません……」
訊かない方が良かったみたい。
「ああ、リンちゃんに怒ってるわけじゃないから、そんなに構えないで。怒ってるのはあの主人公に対してだから」
手をぱたぱた振りながら、お姉さんはそう言った。
「……えっと……」
「何?」
「そういうこと言うのって……怖くないんですか」
わたしがそう訊くと、お姉さんは首を傾げた。
「怖いって、何が?」
「その……プッチーニって、もともとイタリアオペラを代表する作曲家ですし、その中でも『ラ・ボエーム』は、彼の代表作で、最高傑作だって言う人もいるし、『泣けるオペラ』と評判だったりするし……」
「え、あれって『泣ける作品』だったの」
心底驚きましたという表情で、お姉さんはそう言った。ええーっと……わたしの持っているオペラの解説書とかには、そう書いてあるんだけれど……。
「一応そのはずです……」
「うーん、でも、あれじゃ泣けないわねえ。何せ主人公がボンクラすぎるし」
そう断言するお姉さん。ボンクラでヘタレ……。ロドルフォはオペラの主人公の中では、嫉妬深いとはいえ、どちらかというと大人しい部類に入るのだけれど……。他のを見たら、どんな反応を示すんだろう?
「泣けるとか何とか云々以前に、姉貴その手の作品じゃ泣かないだろ。人を死なせて泣かせのシーンを作るのはあざといって、しょっちゅう言ってるじゃん」
鏡音君が口を挟んだ。……普段からそういう話をしているんだ。
「レンは黙ってて。あんたが口挟むと話がわき道に行くから」
お姉さんはぴしゃっとそう言ってしまった。
「で、リンちゃんは何が気になっているの?」
「あの……だから……高い評価を受けている作品に対して、そういうことを言っちゃっていいのかってことが……」
「そう言われてもねえ……実際に見ていてしらけちゃったわけだし。その、プッチーニって人には悪いんだけど、もうちょっと話の組み立て方を考えてほしいわ」
確かに、プッチーニのオペラは構成が無茶苦茶なところがある。『ラ・ボエーム』はまだいい。『マノン・レスコー』を見た時は、あまりにストーリーの飛び方が唐突なので、わたしは見ていてひどく混乱した。
「そうねえ……じゃ、ちょっと訊くけど、リンちゃんはあれ見て泣いたの?」
「……いいえ」
そもそも、オペラは見て泣くものではないような気がする。息が詰まりかけたことなら何度かあるけれど。でも、それも、『ラ・ボエーム』ではないし……。
「結局、そこに帰結していくと私は思うのよね。例え世界中の九十パーセントの人が認めた名作だって、あわない時はあわないんだし。リンちゃんがその作品を見てどう感じたのか、どう思ったのかってことを、まずははっきり見極めないと」
お姉さんは真面目な口調で、そう言った。
「おかしくて笑っちゃうにせよ、逆に悲しくて泣いてしまうにせよ、自分がどう思うのかが大事でしょ。それがわからないんじゃ、自分がどこにいるのかもわからないわよ。そして更に自分の立ち居地をはっきりさせて、自分の考えってものを確立させて行く。そこが大事なんじゃないのかな」
わたしは……ずっと、考えることや、判断をすることが怖かった。そうすると、何もかもが終わってしまうような、そんな感情に囚われていた。
「まあ、更に付け加えさせてもらうと、一言だけ『つまらない』だの『泣きました』だので、終わらせてしまうのも良くないと思うのよね。せめてどうしてそう思ったのかぐらい、自分でちゃんと説明できなくちゃ。少なくとも、私自身は、自分で自分の感情や考えを、説明できるようにしておきたいの」
そこまで話すと、お姉さんはふうっと息を吐いて、コーヒーの残りを飲んだ。
「なんか、らしくもなく真面目な長話しちゃったわ」
「いえ……色々と、ありがとうございました」
本当に……今日来て良かった。
「あの……もう一つ、いいですか?」
わたしは鞄を手元に引き寄せて、中からDVDを取り出した。マスネのオペラ『タイス』だ。
「もしよかったら、これを見てもらいたいんですが……」
お姉さんはDVDを受け取った。
「……『タイス』ね。これもオペラ?」
「はい。このオペラの主人公のことを、どう思うのかが知りたくて……わたし、どうにもよくわからなくて」
鏡音君のお姉さんが、アタナエルのことをどう思うのかが訊いてみたかった。ちょっと図々しいお願いかもしれないけれど……。
「巡音さん、『タイス』って、どういう意味?」
鏡音君が訊いてきた。
「ヒロインの名前なの。このパッケージの女性がそう。彼女は遊女というか、高級娼婦というか、吉原の花魁みたいな人なのね。で、主人公はアタナエルという男性で、修道士。オペラの舞台は四世紀のエジプト」
わたしはざっと設定を説明した。
「変わった設定だな」
「でも結構面白そうじゃない。今見てもいい?」
お姉さんがそう言った。
「わたしは構いませんが……」
鏡音君はいいんだろうか。視線を向けると、鏡音君が頷いた。
「俺もいいよ」
「じゃあ見ましょうか」
お姉さんは、『タイス』のDVDをプレーヤーにセットした。オペラが始まる。
オペラが始まって、大体十五分ぐらいが経過した頃だ。話の内容としては、アタナエルがタイスの夢を見て、彼女を改心させることが神の意思なのだと主張する辺り。突然、鏡音君のお姉さんがくすくす笑い出した。
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