お久しぶりの方、お久しぶりでございます。そうでもない方もお久しぶりでございます。あなたの心のキジ目キジ科ヤケイ属、プリチーアイドル鶏です。今回はわりかし有名な曲なので知っている方も多いかもしれません。ちなみに僕は「飛魚のアーチ」というやたら南国トロピカルなサビの冒頭で曲の存在を思い出したりしたのですが、南国トロピカルの闇が思いの外深くて何か開いてはいけない扉を二、三枚開けてしまった気がします。そんな世知辛い現代社会では御座いますが、これも何かの巡り合わせということで、お楽しみいただければ幸いでございます。

実践歌詞考察講座 Cocco 強く儚い者たち

 さてさて、昔友人に「男の人は言いたいことを言葉に込める」、「女の人は言いたいことを言葉に隠す」というような事を言われた事がありますが、この歌詞というのはまさにそれを体現しているような気がします。日常会話で使われるような普遍的な表現がこうも重みを帯びるのは、その秘匿された情報の重み故なのかもしれません。例えばprechorus1(1B)の表現。

――この港はいい所よ
――朝陽が綺麗なの
――住みつく人もいるのよ
(Cocco『強く儚い者たち』より抜粋)

 傷つきながら港町に辿り着いた男性を労うシーンですが、順当に考えればここはすでに口説いてるシーンなわけですね。「朝陽が綺麗」「住みつく人もいる」という情報で相手を口説いているわけです。「住みつく人もいる」という言葉は、暗に「だから、あなたも住み着いて御覧なさいよ」と言ってるわけですね、突き詰めて言うならば「私と二人で暮らしてみましょうよ」という副音声を込めてさえいるように思います。

 この時点で十分に隠しているのですが、「この街は朝陽が綺麗なのよ」というワンクッションを置くことによって、それをさらにオブラートに包み込んでいる。あくまで自然な会話の流動を演出しつつも、言葉の中にそんなズルさとやましさを詰め込んでいる。感情の情報が立体的なわけですね。だからこそ此処のフレーズは重たいわけです。

 この傾向はセクシャルなニュアンスを帯び始めた2chourus以降にも引き継がれます。例えばverse2(2A)の「声が聞こえる?」というフレーズ。嘘か真かは定かではありませんが、人は誰かを失った時、始めに声を忘れ、次に映像を失い、最後に思い出を失うという話があります。真偽の是非は置いておくとしても、いずれにせよ対象の声という情報は、突き詰めて言えば対象の記憶そのものであり、対象への執着そのものと捉えることができるかと思います。「彼女の声が聞こえるの?」という問いかけは、なので極めて真に迫るものであり、「本当は彼女の事なんて忘れ始めてしまってるのでしょう?」「本当は彼女に対する執着があったかどうかなんて、もう自分でもわからなくなってしまっているのでしょう?」という、限りなく悪意に近い毒が塗り込まれている言葉ですらあるわけです。

 結局のところ、この歌のテーマというものは「変質せずにはいられない自己」であるのかと思います。人は弱く脆い存在だから、誰かを失う悲しさや誰かを欠いた寂しさに晒された時に、変わらずに居続ける強さなんて持ち合わせていない。けれど、生きていくために自分の心の在り方すら変えてしまえる強かさを持っている。人間というものは良くも悪くも環境の生き物で、置かれた環境に適応する能力を持ち合わせているわけです。そんな欠落に対する適応の在り方こそが人の弱さでもあり、強さでもあるのかなと思います。

 そう考えると、恐らく多くの人が騙されたであろう、いかにも南国トロピカルな「飛魚のアーチ」という言葉もわりと物凄い気がしてきます。トビウオという魚が何故飛ぶのかと言うと、これは捕食者から逃れるために進化した形状であると言われています。獲物を狩るためでも無く、旅行者の目を楽しませるためでも無く、ただただ必死に危機から逃れるためにトビウオは羽ばたいているわけですね。

 だから飛魚のアーチという言葉は、逃れ続ける生き方そのものを表してるのかもしれませんし、或いは、逃れきって一息ついて見上げた蒼穹の鮮やかさを示しているのかもしれません。寂しさや不安や葛藤に蝕まれ続けていく自己から、必死に逃げ続ける。無責任な他人から見れば或いはそれは美談にすら思えるかもしれませんが、人間というのはそこまで頑丈にできていないですし、トビウオだって全ての個体が永遠に捕食者に捕まらずにいれるわけではありません。

 例え貴方が逃れきったところで、彼女が暗闇に足を取られない保証にはならない。貴方がどれだけ必死に不安を薙ぎ払ったところで、どれだけ必死に寂しさに耐えたところで、それは貴方の望む未来を保証しない。現に、耐えきれなかった人間がここにいるわ。

 語り部の女性にとって、男性の存在というものは過去の自分の写し鏡の様な存在であり、慰めの対象であり、救済の対象であったのかもしれません。「誰かと腰を振ってるわ」という言葉は「だって私も彼もそんなに強くいられなかった」という慟哭のようですらあります。足を取られたのが彼女であったか彼女のパートナーであったか等というのは瑣末な問題で、いずれにせよ彼女の望んだ未来は叶わなかった。語りかけている男性が港を離れ目的を遂げ故郷に帰ったとして、彼の望んだ未来が叶う保証など無いし、仮にその幸福が果たされた所で語り部にとっては何も変わらない。結局、自らの掌の中には何一つ残らない。

 だからこそ、彼女は「貴方の願う幸福はきっと叶わない」という呪いの言葉を吐き出しながら、彼を自らの掌の中に収めようとしているわけです。自らが望んでいるものが、ただの傷の舐め合いである事も、彼に向けた呪いの言葉は結局のところ自らの願望でしか無い事も、きっと彼はそれに靡かないであるだろう事も全て理解した上で。

 さて、そんなこんなで朝陽も登ってきましたし宴も酣で御座いますが、ぼちぼち僕も僕の飛魚のアーチをくぐる作業に戻ろうかと思います。歌というものは聞いた人の中でこそ完成するものですし、最終的な解釈は皆様の感じるまま感じ取って頂くのが王道であるかと存じます。その足掛かりにでもなれたなら幸いです。それではいずれまた何処かの港町で。鶏でした。

この作品にはライセンスが付与されていません。この作品を複製・頒布したいときは、作者に連絡して許諾を得て下さい。

実践歌詞考察講座 Cocco 強く儚い者たち

おいでよゆるふわアイランド◝(*'▿'*)◜

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投稿日:2017/04/08 05:26:29

文字数:2,600文字

カテゴリ:その他

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