結局、わたしは鏡音君と、『ピグマリオン』の話をしたり、公園を散歩したりして、三時ぐらいまで一緒に過ごしてしまった。……楽しいと思える時間は、あっという間に過ぎてしまう。
本音を言えばもっと公園にいたかったけれど、さすがにそろそろ帰らなくてはまずい。公園から自宅までは歩いて四十分ぐらいだ。門限にはまだゆとりがあるけれど、状況が状況だし、ギリギリというのもよくないだろう。
わたしは鏡音君に今日のことをありがとうと言って、帰路に着いた。家が近づくにつれ、わたしの気分も沈みこんでいく。……帰りたくない。
お父さんの言いつけを破って、勝手に家を抜け出したのはわたしだ。悪いのはわたし。
それに……わたしは、鏡音君との約束を破りたくなかった。だから、言いつけを破ってでも、会いに行くって決めたの。自分で決めたことなんだから、責任は自分で取らなくちゃ。例えどれだけひどい目にあうとしても……ね。
覚悟は決まっているはずだけど……やっぱり怖い。
やがて家に着いた。わたしは深く息を吸うと、自宅の玄関のドアを開けた。
「……ただいま」
小さい声で言って、中に入る。ちょうどそこへ、二階からお手伝いさんが下りて来た。
「リンお嬢様!」
お手伝いさんはびっくりして、残りの階段を駆け下りて来た。そんなに走ったら危ない……と、わたしの頭のどこかが、他人事のように考えている。
「お嬢様、どこへ行かれていたんですか!? 奥様はそれはもうご心配でご心配で……」
「あの……」
わたしが何か言う前に、お手伝いさんはくるっと踵を返すと、奥に向かって駆け出して行った。「奥様! リンお嬢様がお戻りになられましたよ!」と叫びながら。
事態はわたしが考えていたのよりも、ずっとおおごとになっているようだった。困ったな……。
「リン!」
わたしが玄関ホールにぼんやりと立っていると、奥からお母さんが駆け出して来た。わたしの方に駆け寄ってきて……それから頬に痛みが走った。
「一体どこに行っていたの!? 部屋にいないからものすごく心配したのよ!?」
お母さんはわたしの両肩をつかんで、一気にそうまくし立てた。あ……心配、させちゃったんだ……。
「もしかしたら、最悪の事態になったかもって……」
わたしより、お母さんの方が泣きそうだった。
「……ごめんなさい」
言いつけを破ったことを後悔してはいないけれど、お母さんを心配させたのはいけないことだ。だから、わたしは謝った。
「謝るのはいいから、どこに行っていたのか言ってちょうだい」
「……柳影公園。その……家にいると、息が詰まるような気がして。新鮮な空気が吸いたかったの。連絡すればよかったんだろうけど、携帯を家に置いて来ちゃって……」
本当のことは言えない。だから、わたしは嘘をついた。……最近は嘘ばかりついている。公園にいたのと、携帯を忘れたのは本当だけど……。
「……リン、もう二度と、お母さんに何も言わずに家を出たりしないで。出かける時は、必ずどこに行くのか言ってちょうだい。いいわね?」
「う、うん……そうする。出かける時は、お母さんにちゃんと出かけるって言うから」
わたしがそう言うと、お母さんは少し安心したようだった。
「あの……お母さん、お父さんは」
言いかけたわたしを、お母さんは遮った。
「お父さんには言わなくていいわ。昨日の今日だし……。お手伝いさんたちには、お母さんから口止めしておくから。リンは心配しなくていいのよ」
「……ありがとう」
わたしは少し気が楽になった。いけないことだけど……。でも、お父さんのお説教を聞かずに済むのはありがたい。
「リン、おやつを用意してあげるから、手を洗ってらっしゃい」
お母さんはいつもの口調に戻っていた。わたしは、少し申し訳ない気持ちになる。
「あの……お母さん、いいの? わたし、言いつけを破ったのに」
「いいのよ。おやつのことはお母さんの担当だから」
そう言われたので、わたしは洗面所に行った。手を洗ってから居間に行く。おやつは大抵、こっちで食べる。
居間のソファで座って待っていると、お母さんが、ワゴンを押して入ってきた。ワゴンの上にはお茶道具一式と、サントノーレの乗ったお皿が乗っている。
「お母さん……これ、サントノーレ……」
わたしは驚いて、目の前を見ていた。お母さんがくすっと笑って、わたしの前に紅茶のカップと、切り分けたサントノーレを乗せたお皿を置く。
「いいから食べなさい」
わたしは済まない気持ちで、フォークを手に取った。サントノーレは、ものすごく手間のかかるお菓子だ。スポンジケーキ(一般的にはビスケット生地を使うのだけれど、お母さんはスポンジを台にするのが好みなのだ)に生クリームを塗って、カスタードを詰めた小さなシュークリームをぐるっと飾ってキャラメルをかけ、中央には生クリームを搾り出して飾りにする。お母さんはスポンジもシューもカスタードもキャラメルも全部手作りするから、手間もかかるし時間もかかる。
豪華で華やかで、美味しいお菓子だけど、あまり作ってはくれないお菓子。それがサントノーレ。……どうして今日これを作ったのかなんて、訊くまでもないこと。
「……美味しい?」
「ええ」
わたしが小さい頃から、お母さんはお菓子を焼いていた。もちろん、焼き菓子じゃなくて、冷やし菓子の時もある。でも、一番に思い出すのは、オーブンの前にいるお母さんの姿だ。時間が来るとオーブンを開けて、綺麗に焼き色のついたお菓子を取り出す。すぐに食べたいとねだるわたしに「まだ熱いから、少し冷めてからよ」と言葉をかける。
……少し大きくなると、わたしもエプロンをして、お母さんの手伝いをしたんだっけ。最初は全然役に立ってなかったどころか、むしろ邪魔になってばかりだったけど、お母さんはわたしを追い払おうとはしなかった。初めて自分だけの力で焼いたクッキーが、みっともない仕上がりになってしまった時も「上手に焼けたわね」と言ってくれた。
「お母さん、カスタードにコアントローを入れた?」
「入れたわ。よくわかるわね」
だって少しだけ、オレンジの香りがするもの。グランマルニエならもう少し強い香りになるから、これはコアントローだ。
お母さんに薦められるまま、わたしはサントノーレを二切れ食べてしまった。さすがにお腹がいっぱいになる。
あ……そうだ。
「ねえ、お母さん」
「どうしたの?」
「あの……明日、キッチンを使ってもいい? 久しぶりに、クッキーを焼いてみたいの」
「いいわよ。基本的な材料は全部揃ってるわ。どこにしまってあるかわかるわね?」
わたしは頷いた。どんなクッキーにしようかな。クッキーと言っても色んなタイプがある。甘いもの、甘くないもの、素朴なもの、見た目の可愛らしいもの、簡単にできるもの、手の込んだもの……。久しぶりだから、難しすぎないものの方がいいわよね。
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