『月が出てるからって、夜家の外に出ちゃいけません』
母さんはそう私達に諭した。
『なんで?明るいからいいじゃん!』
『あのね、月夜の森には怖ーい熊さんが出るの。外をふらふらしてる悪い子を追い掛けて来るのよ』
『くま!?』
『そうよ、捕まったら食べられちゃうかも』
月の光に照らされて、熊が追いかけてくる。それは子供心にとても怖いイメージで、私達に家で大人しくしている方が良いときもあるということを学ばせた。
そのせいか、今まで私にとっての森とは身近ではあるけど殊更に入ろうとは思わないような場所だった。なにか用があればできるだけ素早く通り抜ける―――赤ずきんちゃんの二の舞にならないように。
あ、あれは熊じゃなくて狼だけど。
まあ、そういう訳で私達は森の中の地理なんて殆ど知らない。空や太陽は見えてもどう行けばどこに着くかの目印なんてないし、
…―――ううん、大丈夫。
準備はすべて整っているんだから。
「ここでちょっと待っててね」
森のかなり奥で母さんはそう言って私の手を離した。
動くと危ないから、なんて言ってるけど、父さんも母さんも行っちゃったらそのまま戻ってこないつもりなんでしょ。
分かっているのに知らない振りをするのって、なんだか滑稽だ。劇でも演じているみたいな気分になって来る。
思ったとおりの筋書き過ぎて、取り繕わなくても笑顔が浮かぶ。多分これは嘲笑に近いんだろうけど、見ただけじゃ判らないかな。
「うん、父さん、母さん」
答えながら、何となく右手でレンの手を探った。
半ば無意識の動作だったけど、触れた温もりが自分から私の手を包み込んでくれるのが何だかとても心強い。
ちゃんと帰り着くための手筈はレンが整えた。
父さんと母さんは知らないだろうけど、私達は二人っきりでもちゃんと帰り着ける。玄関に姿を現した私達を見て、死ぬほどびっくりすればいい。
そんな私の考えなんて知る筈もなく、母さんと父さんの翠と青の後ろ姿はあちこちに鮮やかな黄緑の濃淡を持つ緑の森の中に消えていく。
―――おいで。
ふと、私の耳に微かな声が触れる。
―――かえっておいで。私のところに。
それは本当に微かな囁き。
でも確かに聞こえる。
私を―――私達を、呼んでいるんだ。
「…う」
「あ、起きた」
どうにか時間を潰そうとしていたら、いつの間にか寝てしまったらしい。なんとなく肌寒くて目を覚ましたら至近距離にレンがいて、思わずびくりと肩を揺らしてしまった。
レンはそんな私に苦笑して、寒くない?と聞いてくる。そうでもないよ、と首を振った時、辺りにすっかり闇が落ちているのに気付いた。
「あれ、夜?」
「リンかなり良く寝てたからね」
「…起こしてよ」
「いや、なんか寝顔見てるの楽しくて」
「何それ!?」
「寝言も言ってたし。『レンおいしい』って…何の夢見てたのさ。ちょっと意味不明だよ」
「ね、寝言!?うそぉ!?なにそれ、わ、忘れて、忘れてっ!」
わたわたっと両手を上下させて詰め寄ったのに、レンはそれを笑ってスルーした。こういう時にレンは妙に余裕を見せる。
そういう所は、ちょっと羨ましいかな。何だか大人っぽくて。
「ま、じゃあ帰ろうか」
「うん、…?」
ふと私は辺りを見回した。
―――。
夢から覚めたはずなのに、やっぱり聞こえる聞こえる、気がする。
優しい声。
でも、母さんみたいな甘い声じゃなくて、もっと毅然とした声。
あの夢で―――私達を呼んでいた―――…
―――誰?
思わず暗い木の向こうの気配を探る。
当たり前だけど、何も感じ取ることなんて出来ない。
知らない声、のはず。
だけど懐かしいなんて感じるなんて…どうして?
「どうかした?」
「あ、ううん、何でもないよ!行こ行こっ!」
その声に気を取られた私にレンが少し不思議そうな顔をする。
説明しようかな、と一瞬思ったけれど、気のせいかもしれないものの事なんて今言うべきじゃないと思い直す。
何しろ今は、家に帰り着くという大事な仕事があるんだから。
足元はやっぱり暗くて良く見えない。その上、森の中だし道もないから気を抜けば転んでしまいそうになる。
なのに何故か足を取られることもなく、私とレンは順調に道を進んでいく事が出来た。
「こっち」
「ありがとう…ねえ、レン」
「ん?」
「何を目印にしたの?わからないんだけど」
「まあ、先に帰るあの二人に気付かれちゃ厄介だからね」
レンはいたずらっぽく笑って道端で何かを拾う仕種をした。指先で何か小さなものを拾って掌に載せ、私の方に差し出す。
きらり、と何かが掌の上で輝いた。
「…ガラス?」
「うん。ガラス」
「え、それ、ちゃんと見えるの?」
私は一瞬不安に襲われた。
だっていくら月夜だからって、ここは森。
木は隙間なく生えているし、下草の丈だって高い。ガラスはちゃんと光が当たらないと輝かないのに、ちゃんと道はわかるのかな。
「あ」
「あ」?…え?
「考えてなかった」
「―――ばかああぁぁぁあああ!!」
てへ☆、とかいう効果音を背にとんでもない事を言い放ったレンに、思わず本気で叫んでしまった。
ちょっとレン、命がかかってるって言っても過言じゃないのになんでそこで微妙に抜けちゃったの!?
喉首を締め上げるような勢いで迫る私に、レンは「物凄く失敗した!」と言わんばかりの焦りの表情で口を開いた。
「で、でもほら今の所ちゃんと辿れてるし!いけるって!」
「っていうかよく考えたらガラス片とか普通に落ちてる可能性だってあるよね?もしかしてもう既に迷ってたり…」
「迷ってない!かのヘンゼルだって裏庭の石ころ使って帰りついたんだよ?」
「そうだったっけ?くっ、ヘンゼル…恐ろしい子…」
「何キャラを目指してるのさ、リン」
最も、よく考えれば、仮に迷っていたとしても今更どうこうできる訳じゃない。
今の私達に出来るのは、自分の信じるものを信じながら進んでいく事だけ。
その先に何があるのかなんて、いつだって着いてみなければわからないんだ―――そう信じて。
「何だっけ。たしかヘンゼルとグレーテルの場合は二回捨てられるんだよね」
不意に、「ヘンゼル」の固有名詞から私の記憶の中の粗筋が呼び起こされる。この間、あんまり興味が無いながらもレンに言われてあの物語をざっと読んだから割合はっきりした状態で思い出せた。
「うん」
「初めは家に帰れる」
「そう、で二回目はお菓子の家に着く」
レンの言葉を聞いて、私はふと疑問を感じた。
「でもさ、それって一緒じゃない?」
「ん?」
レンが微かに首を傾げる。
私自身なんだか突拍子もない考えだと思いながらも、とりあえず最後まで考えを言葉にしてみた。
「家に帰っても魔女に会っても、結局二人共また命の危険に晒されるんだもん。ヘンゼルとグレーテルにとっては同じ事じゃない?」
結局魔女と意地悪なお母さんはどっちもヘンゼルとグレーテルを殺そうとしていた。
「その点では、お母さんと魔女はイコールで繋げる…よね…」
自分の声が萎んでいくのを、私はどこか遠くに聞いていた。
頭の中が真っ白になる程の衝撃を伴って、自分の中にその考えがすとんと落ち着く。私の独白に近い考察を聞いていたレンも何かが腑に落ちたように目を丸くしていた。
それ程に、その理論は今の状況に対してあまりにぴったり一致している。
そうか。そういう事だったんだ。
―――あれは、魔女だったんだ。
「なんだ…騙されてたんだ、私達」
そっとそう口にしてみると、ぴったりしたその感覚はより強いものになる。
それに、お伽話では、唯一お父さんだけは何とか二人に希望を残そうと森に棄てる事を提案した。二人の我が子が誰かに拾われる事を祈って。でも我が家の「お父さん」は、祈ることさえしてくれなかったみたい。
ならやっぱり、あれも「お父さん」じゃないんだ。
じゃああれは何なんだろう。魔女の言いなりになってるんだから、魔女の下僕かな?
どれだけ歩いたか分からない。
がさ、と足が最後の一歩を踏み出す。
同時に、心も最後の一歩を踏み出して―――何かを超えた。
私達の目の前には、暗闇に沈んだ一軒の家が佇んでいる。
そんなに大きくはないけど、小綺麗で趣味の良いその建物。
そう、こんなに綺麗に見えるのに…これは魔女の住み処だ。
私達の命を脅かす、魔女の住み処だ。
私達を甘い言葉でおびき寄せた魔女。与えられたそのお菓子に目をくらまされて、私達は今までその真の姿に気付けなかった。
でもまだ大丈夫。
まだ私達が助かる手段は残っている。
「…どうすればいいのかな」
なんだか不安そうなレン。
それはそうだ。だって帰り着くだけじゃ私達の危険は去らないんだって気付いてしまったんだから。
しかも、相手は「魔女」。私達みたいな子供で対抗できるのかさえ判断できない。
でも私は自信たっぷりにレンの手を握り締めた。
そんなに不安がらないで。何をするべきか、私は分かってるもの。
「大丈夫だよ、レン」
私は繋いでいるのと逆の手でそっと自分のポケットを探り、探していたものを掌で掴んだ。
うん、大丈夫。どうすればいいか私にははっきりしている。
あれは魔女。なら答えは簡単だ。
魔女は火炙りに。それが大昔からの約束事。
最初に読んだとき、グレーテルが魔女を竃で焼き殺すなんて方法を選んだのはどうしてなのかわからなかった。だって雑用をしていたグレーテルなら刃物だろうが鈍器だろうが幾らでも持って来れただろうと、そう思ったから。
だけど、今なら分かる。
ヘンゼルとグレーテルは正しかった。
彼らはあんなに小さいのに、きちんと魔女狩りの作法に則って彼女を殺したのよ。
ポケットからマッチ箱を取り出して、レンに「これ」と示す。
レンは理解が追い付いたらしく、感心したように数回頷いた。
「ああ、成る程。…じゃあ最初に台所に行かないとね」
「うん」
少なくとも寝室には布団という可燃物があるし、単に燃やすだけなら簡単だ。
でもそれじゃダメ。だって、逃げ出す余地があるもの。
確実に仕留めるためには―――そう。
少しわくわくして来て私は笑った。
こんな時だっていうのに(だからこそ、かもしれない)私は心から笑った。
多分第三者が見たなら余りにいびつで不可解な笑顔だったと思う。でも残念ながら、この場にそんな客観的な分析が出来る人はいない。
レンも、笑っていた。
二人してくすくす笑いながら玄関に歩みを進める。窓はどれも暗い。多分、この家の住人達はどっちも夢の中なんだろう。
私達は優しいから、チャイムを押さないで起こさないでいてあげるね。
さあ。
魔女を殺せ。下僕も殺せ。不浄のものを灼き尽くせ。
それができてこそ、私達はやっと本当の家への帰り道を見つけることが出来る。
そっと扉に手を掛ける。
そして、私達は声を合わせて呟いた。
「ただいま」
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