■歌詞を細かく検証・考察していきましょう■

全体像を見ると「雲」というのが一貫してキーとなっていますね。ここ、テストに出ますよー。
雲というのが光と語り部である彼女を語る上で重要な存在となっています。

先ず、A0に書かれている出だしに書かれている「白い波」、これは「雲」を示す言葉でしょうね。此処では雲は光を遮るものとして描かれています。「雲を掻き分けて見える光は眩しいな」っていう内容ですね。そして先述の碧の道に沿って置き去りと輝いていると続くわけです。
この「置き去りと 光る」の「と」使い方がまさにあさきの真骨頂ですね。実に美しい日本語です。まじもう女子高生に何歌わせてんだよおっさんという感じがしてなりません。
置き去りという言葉から、空の光がどれだけ彼女から乖離した存在であるかがうかがい知れます。嫉妬交じりの視線の先に輝く空の明かりはきっと彼女にとっては酷く恐ろしく、同時に酷く愛おしいものなのでしょう。うーん出鼻からかっとばしてますね。流石あさき。

続いてA1ですが、内容としては風景を入れ替えただけでA0と光への恐怖の心情は変わっていません。不変的な「空の光」、より身近な「街の明かり」。何処へ視点を変えたところで自分の性質は変わらないのだなという諦めにも似た心情が読み取れます。「恐る恐る影の 伸びては ふりかえる」というフレーズの「は」がまた美しいです。
ここでは「街の明かり」に対応する存在として「影」が描き出されています。暖かで楽しげな「街の明かり」、光があれば影もあるわけで、光が強さを増せば影もより強い存在を示していく。その影こそが自分自身であるのかもしれない。ここにはそんな心情が吐露されているのかもしれません。

そしてサビに入ります。彼女にとっては光は愛おしいものであり恐ろしいものであり、自分は光には似つかわしくないのだという劣等感……ではないですね、これはきっと彼女なりの寂しさの表現であるのでしょう。「誰にも言えず 誰にも」というフレーズがより、彼女の孤独感を強くしています。
そんな心情が色濃く現れているのが、サビ後半部分で、隣り合っているのに「遠く」感じてしまう自身を歌っているわけですね。そして彼女自身の心も酷く揺らいでいる。オセロの白と黒のように相反する恐ろしさと愛しさの中で葛藤しているわけです。

そしてリフレインからBメロパートに入ります。まじもうここはあさきの真骨頂といっても良いほどに美しいです。卒業式でよく歌われる「仰げば尊し」に「思えばいと疾し この年月」というフレーズがありますが、「思えば愛とし この年月」なんていうふうに間違って覚えた人達も少なくないんじゃないでしょうか。けれど、その感性はたぶんそんなに的外れでも無いんじゃないかと思います。名残惜しさや愛しさを感じるからこそ、「ああ、時間はなんて早く過ぎ去ってしまうのだろう」という言葉が出てくるわけですし、桜を愛でている事からも分かるように日本人というのは失われるのが早い儚い美というものに酷く心を奪われる傾向があります。その傾向が最も顕著であるのが「花火」であるでしょう。瞬間的に大輪の花を咲かせ、すぐに消え果てしまう一瞬の美です。つまり、このパートの中で彼女が語ろうとしているのは、それがどれだけ自分にとって儚い存在で、裏を返せばそれがどれだけ自分にとって愛おしい存在であるのかというところなのです。

いよいよ最後のサビからリフレインに入ります。出鼻から「ああ いまさら言えず」ですから物凄いインパクトですね。簡素な歌ですからそれほど語ることは此処に来るとなくなってくるんですが、「光の傘に隠れてさ」というフレーズから雲の中から結局抜け出せない彼女というものを上手く表現できているように思います。心地よい雲の中、それでも自身の中のプリズムの中で乱反射する愛おしくも恐ろしい光。自分自身も雲の中に引きこもりながらその光の一部となっている。なんつーわかりにくい文学的な情景でしょう。流石文学少女ロックです。そしてこの最後のサビで最も注視するべき所は最後が「遠くの」で締めくくられている事なんですよね。これだけドラマチックに展開しながら、結局彼女にとって光は遠い存在なわけです。それはもうどう足掻いても変えられないのです。

■歌詞考察から検証するこの曲の主題■

さて、材料も出揃いましたし、この歌の主題についてアプローチです。この点については考察を始める前から確信めいたものを持っていたんですが、この歌はつまり霜月凛から山形まり花に宛てた贖罪の歌であるんじゃないかというのが僕が辿りついた結論です。ひなビタのストーリーの中で凛はバンドに入る事をわりと渋っていて、孤独を好むわりと難儀な性格をしてたりもしています。詳しくはひなビタ♪のフェイスブックでも見ると良い感じにweb小説してますので、おすすめなんですが、かいつまんで言ってしまえば熱心に自分に好意を示してくれるまり花に対して、上手くそれを受け入れる事のできない凛の葛藤が描かれているように思うわけです。
凛にとってのまり花はまさに光そのものであるのかもしれません、それに対して凛自身はまり花の好意を素直に享受する事もできない空虚な人間であると認識しているように思えます。虚空は霜月凛そのものであり、光明は自分に好意を示してくれる山形まり花そのものであるわけです。
では、ディスクールとは何か。これもなかなか一筋縄ではいかない言葉のようです。どうやら哲学用語のようで、文学少女の凛という性質を考えると、この解釈が一番すっきりするような気がします。

――フーコーによれば、言語によってなされた個々の表現は「エノンセ」と呼ばれ、
――ディスクールはこのエノンセの総体である。(wikipediaより引用)

うん。日本語でおk?って感じですね。
まぁ、どうやらこの虚空と光明のディスクールというタイトルもなかなか難儀なようです。
「虚空のエノンセ」「光明のエノンセ」。二つ併せて「ディスクール」って感じでしょうか。

「光明のエノンセ」、つまり「山形まり花のエノンセ」が屈託無い好意を示すものであるならば、「虚空のエノンセ」である「霜月凛のエノンセ」はずいぶんと屈託しています。この二つの異なるエノンセこそがこの作品の肝であり核であり、全てといっても差し支えないのではないでしょうか。

好意を示してくれるまり花に対して、それに背を向ける事しかできない自分に苛立ちつつ、まり花を愛しく思いつつも、その眩しさ故に自分自身の醜さと向き合わされる。凛にとってのまり花は愛しさの象徴であると同時に恐怖の象徴でもあるわけですね。そしてそんな醜い自分の弱さすら受け入れて欲しくてまり花に許しを請うている。そんな贖罪の歌なんじゃないかなというのが僕の結論であります。そんな風に考えると最後の「いつもいつも」というリフレインがなんだか五割り増しぐらいで切なく聞こえてきたりしないでしょうか。これが歌詞考察の醍醐味であります。



どうでもいい後書き

さてさて如何だったでしょうか。凛としてカバーが出来た時はもうTOMOSUKEはゼクトバッハ抒情詩ほっぽり出して何処へ向かってるんだって感じでしたが、このひなビタ♪というコンテンツなかなか面白くて、今後の展開がかなり気になるところだったりします。この前アルバムが出来たばっかりですが、今後も新曲がごろごろ出てきそうな雰囲気なので、全国の音ゲーファンの皆様と一緒に全裸待機していきたい所存であります。ち・く・パ!ち・く・パ!♪
まぁ、欲を言えば今回の考察もどきであさきやこの曲や音ゲーやひなビタに興味を持ってくれる方がいれば僕としては感無量といったところです。あ、ちなみに僕は下手の横好きのへっぽこプレイヤーなのであしからず。ギタドラ赤6ですらクリアできるかどうか怪しいです。ぐぬぬ。

さてさて、では名残惜しいですが今日の所はこれぐらいにしておこうと思います。皆様の作詞ライフに幸あらん事を!

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実践歌詞考察講座 虚空と光明のディスクール 後編

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投稿日:2013/09/29 14:26:02

文字数:3,306文字

カテゴリ:その他

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