最終章 白ノ娘 パート3
さて、もう何か月が過ぎたのか。
ゴールデンシティ、かつては黄の国の牢獄として囚人たちが収監されていた、王宮から見て南側に設置されている牢獄塔の最上階で、薄く差した温かな光を眺めながらロックバードはふと、その様なことを考えた。戦に敗れた時は冬の初めの頃であったが、どうやらもう春がミルドガルドに訪れたらしい。その間に自身は祖国と、そして忠誠を誓うべき主君を失った。その喪失感から自害も考えたが、その割には情けなく生き延びてしまっている。果たして、リン女王はその生涯の最期にどのような表情をなされたのだろうか。思いのほか抵抗なく処刑が執行されたというから、何かを達観されてしまわれたのか、或いはただ純粋なまま、これから何がなされるかを理解しないままで大人しく処刑されたのか。いずれにせよ、悲劇には違いない、とロックバードは考え、長い牢獄生活で疲労した筋肉を僅かでもほぐす様に軽く首を左右に動かした。なまり切った節々が抗議の声を上げたが、その痛みを無視して、ロックバードはもう一度だけ首を左側に傾けた。それと同時に小気味の良い音をたてた首筋を撫でながら、しかし、一体レンはどうなったのだろうか、とロックバードは考える。日に三度、毎日律儀に同じ時間にロックバードに食事を差し出して来る青の国の兵士の話を信じるなら、召使は逃亡したということであった。あのレンに限って、リン女王を置いて逃げる訳もあるまいし、或いは内乱の最中で生命を落としたのか、と考え、ロックバードは酷く深い溜息を漏らした。せめて、二人のうちどちらかでも生き延びていれば、儂も生きる理由があるのだが、と考えたのである。レンとリンは双子。その秘密を知る数少ない生き残りであるロックバードは、それでも噂通りにレンが逃亡したという与太話を信じることでその生命の欠片を長らえさせていたのである。王族の血さえ残されていれば、いずれは黄の国を復興させることもできる。あの青髪の若造に、これ以上好きにさせる訳にはいかんなと、ともすれば萎えてしまいそうな心をロックバードがもう一度振るい起こした時、牢獄塔に規則正しい足音が響き渡った。まるでメトロノームの様に規則正しく足音を刻むその音を耳に納めながら、さて、誰がやってきたのだろうか、とロックバードは考えた。食事の時間には少しばかり早いが、と考察したロックバード伯爵が鉄格子の先、日中にも関わらず薄闇に染められている牢獄塔の廊下を見つめた時、足音がかちり、と止まり、そしてロックバードとほぼ同年代の、他者を睥睨する威圧感を有した男がその姿を現した。ゴールデンシティ総統である、シューマッハ将軍である。
「ご機嫌いかがかな、ロックバード伯爵。」
勝ち誇った様子でそう告げたシューマッハ将軍の姿を毛嫌いするように睨み返したロックバードは、それでも冷静にこう答える。
「儂はもう伯爵ではない。」
国が滅びた以上、国から与えられた爵位に意味はない。しかし、それ以上にロックバードはシューマッハ将軍の尊大な態度に僅かに腹の虫を煮えかえらせたのである。
「これは失礼した、ロックバード殿。」
さて、どうやら嫌味を告げに来ただけか、とロックバードは考え、そしてシューマッハ将軍から視線を逸らせた。これ以上の会話は無用、とばかりに頑なに表情を強張らせたロックバードに対して、シューマッハ将軍が宥める様にこう言った。
「良い知らせを二つ、持って来たのだが。」
その言葉に、ロックバードは彼にしては珍しく鼻を一つ鳴らし、そしてこう答える。
「良い知らせなどあるものか。」
「とにかく聞きたまえ。」
呆れたようにそう告げるシューマッハ将軍に対して、ロックバードは一つ睨むと、無言のままで次の言葉を待つことにした。一体どんな酔狂な言葉が出てくるのか知れたものではないが、その言葉を鼻で笑う程度の権利は認められても良いだろうと考えたのである。その沈黙を了解と受け取ったのか、シューマッハ将軍は満足げに頷くと、再び口を開いた。
「一つ目の良い知らせた。カイト王はこの度皇帝に即位された。国名も改め、今後はミルドガルド帝国と呼称することになる。」
あの若造が、不敬にも皇帝に。それはそれで笑い話だが、と考えながらロックバードは次の言葉を待った。その沈黙に僅かに微笑んだシューマッハ将軍は、少しだけ楽しそうに、ロックバードに向かってこう告げる。
「また、貴殿の恩赦も正式決定された。ガクポ殿も同様だ。今後は、庶民として余生を楽しむがいい。」
成程、確かに良い知らせた、とロックバードは考えた。この儂に、生き恥をさらすことでシューマッハ将軍は実質敗北していたはずのカルロビッツの戦いでの醜態を挽回するつもりなのだろう、と考え、そして口を開く。
「感謝などせぬが、ありがたく頂戴しよう。」
あの若造からの恩赦など受けたくもないが、だが自由を手に入れられるのならば、僅かな可能性を求めてレンの行方を追う。ロックバードはそう考え、そして強い視線でシューマッハ将軍の瞳を睨んだ。いつの日か必ず、黄の国を復興させてみせると決意して。
ロックバードと、ガクポが数カ月ぶりに日の光の元にその姿を現したのはそれから小一時間程度が経過したころであった。ロックバードとは離れた場所で収監されていたガクポの姿をまともに見るのは同じく数カ月ぶりになる。そのガクポは収監の疲労の為か、少しやつれた様な印象をロックバードに与えた。
「これから、どうするのだ。」
ロックバード伯爵を見て、力なく微笑んだガクポに向かって、ロックバードはそう声をかけた。いずれ、この男の力を借りることもあるだろう。ロックバードはそう考えたのである。
「暫く、流れます。」
静かな声で、ガクポはそう言った。ガクポの愛刀である倭刀はシューマッハ将軍に没収され、今はガクポの手元にはない。武器を持たぬ状態で、一体どこに流れるというのか。
「どこに行くつもりだ。」
「さて、足の向くまま、流れるままに。」
よもや、死ぬ気ではないか、とロックバード伯爵は考え、そしてガクポをたしなめるようにこう言った。
「いずれ、貴殿の力を借りることもあるだろう。結論を早まるな。」
その言葉に対して、ガクポは唇を噛みしめ、そして震える様にこう言った。
「私に、生きる価値などあるのでしょうか。」
そして、言葉を続ける。自身への後悔を怒りに変えて、ただただ、強く。
「私は、守れなかった。力だけを持て余して、何も守れなかった。唯一忠誠を誓った国も、愛する女王も、何も、何一つ。私は、私が唯一生きる価値を、失いました。」
その言葉は深い後悔。愛悼に満ちたその言葉を受けて、或いはリン女王を王族としてではなく、女性として愛していたのかも知れぬ、とロックバードは考えた。だが、この男はここで死んでいい人間ではない。もっと生き延びて、ミルドガルド大陸の民の為に戦って貰わなければならない。そう考え、ロックバードはガクポに向かってこう言った。
「ならば、儂と共に仇を討とう。」
その声に、ガクポはその絶望に満ちた瞳を僅かに光らせた。飢えた獣の様な、強い視線が僅かに蘇る。その瞳に向かって強く頷いたロックバードは、続けてガクポに向かってこう言った。
「いずれ、儂は逃亡したレンと共に軍を上げる。そして、黄の国を復興させる。その時、貴殿の力が必要だ。」
残りの人生がガクポに比較して短い自分に、どこまでの行為が出来るかはまるで分からない。第一、レンが未だに生き残っているのかも分からない。だが、儂もまだ老年と呼ばれるには若い時期にいる。残りが十年か、二十年か。四十も中盤を迎えた儂に残された時間はせいぜいその程度だが、可能性が僅かでもあるのなら、例えそれが絶望的な確率であってもそれに賭ける。今後十年の内にレンを見つけ出し、そして蜂起する。後は若者たちに託せばよい。黄の国の未来を。もう一度、あの豊かな国を取り戻す為に。
「畏まりました、ロックバード伯爵。私は、この無様な命を黄の国の為に今暫く残しておくことに致しましょう。」
ガクポは何かを振りきらせたように面を上げると、強くそう言った。まるで野山を駆ける風の様な、力と優しさに満ちた表情で。
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鏡(キョウ)
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