目を開けて、辺りを見回す。
夢を見ていた。
夢の中では自分の時間がごちゃごちゃになっていて、何故だか起きる度通っている病室の住人は少女がそこには居る。手を伸ばせば届きそうなほどの距離で、でも決して届かない場所で眺めている。そんな夢。
出会ったばかりの頃は確かに少女で、外見年齢は大体レンと同じくらいだったというのに今はレンよりも確実に年上に見えるだろうしし、きっと並んで歩いていても姉弟にしか見えないだろう。
あの時から、もう五年も経ったのだと実感させる。
ずっと見たかった笑顔を見せてくれるようになった。微かな表情の変化も見逃さなくなったと思う。
照れたように笑う時の目元が好きで、いつからかその笑顔を守りたいと願うようになった。
ふ、と。夢で感じた悪寒を思い出す。
もしも、眠っている間に息を引き取っていたら。
ひゅっ、と細く息を吸い込んで胸が苦しくなった。
今まで見てきた人々の死顔が脳裏をよぎって彼女に重なる。
身体が成長を止めたと恐らく同時に、この脳はより鮮明に物事を記憶するようになった。何処かで聞いたのか、或いはいつか本で読んだのかもしれないが、ひとは何かを失ったときそれを補う何かが発達するのだと。そのとき聞いたのは五感の話ではあったが、もしかしたらそのせいでレンは今までに出会ったひとを、そして喪ってきたひとを忘れにくくなった。
息が出来ない。吐き出せない。苦しい。涙が止めどなく溢れ、振りきりたい過去が走馬灯のように流れる。
身体を前に倒して布団を掴む。
胸元を掴んで半ば喘ぐように呼吸をした後、ゆっくりと深呼吸をして落ち着かせ普段のリズムを取り返した。
大きく吐き出した息の塊をきっかけに身体起こしかいた冷や汗を拭う。
漸く忘れられたと思っていた日々はまだ脳に記憶として焼き付いているようだ。
ゆっくりとベッドを降りて、不安を消すために通っている病室に向かう。
三つの病室とナースステーションの前を通って丁度来ていた上行きのエレベーターに乗り込み階数を押す。
いつもは手土産を買いに売店に寄り道をするが今日はしない。
早くあの顔が見たかった。
チン、という音の数瞬後にエレベーターが止まりドアが開く。無意識に早足になってしまうのは仕方がなかったが、殆ど走っていたようで看護師のお姉さんに走らないでと注意された。
目的の病室のドアをそっと開け、見回すといつものベッドの場所に座ったまま眠った彼女の姿があった。
窓際であるせいで日光が白い肌にあたり眩しそうだが、窓が閉まっているお陰で冷たい風が入ってこないからかとても気持ち良さそうに眠っている。
腰まで布団で覆い、膝には本が置いてあるから読んでいる途中で睡魔に負けたのだろう。
目の前の身体が小さく身じろぎをして細い金糸の髪が揺れた。
リン、と救いを求めるように夢の少女の名を紡ぐと眉をしかめた同名の彼女が瞼を上げた。
「ん…、レン?」
まどろみに揺れた瞳が徐々に焦点を取り戻してレンを、見た。
病室の白は強制的に外界から遮断する。生を当たり前とする世界と、生と死が入り混じる世界。
時折許可をもらい外出することがあるが、病院の囲いを一歩出た途端に感じるのは色の煩さ。白しかなかった世界から膨大な色がある世界へと一瞬で移動する。
色。これは生きる象徴ではないかと思う。
生きているからこそ、色がある。死んでしまえば、無。完全なる無といえばキリスト教の教えと重なるが、この場合は色である。無色。白は色と無色の狭間に存在している。
清潔さを漂わせる白は統一させてしまうと酷く静かで、優しさのカケラもなく膨大な色を遮断してしまうのだ。
「ごめん、起こした?」
「ううん、丁度起きたとこ」
眠気を払うように頭を左右に振り口を手で隠して欠伸をした。
ベッドに座りなおしているのを見て棚とベッドの間にしまってある折りたたみの椅子を開いて座る。
「具合、どう?」
「ん、別に普通かな。いつも通りだよ」
「検査するってこの間言ってたよな、結果は?」
いつも通りだよ、ともう一度笑った。
今以上に悪くなりようがないのだ、リンは。身体を蝕む病魔が体力を落とし、心拍数が上がった心臓はやがて疲れて止まるだろう。
その前に、リンはドナーを見つけて手術をしなければならないのだ。
しかし手術の間も体力が持つか、成功しても拒否反応が出ないかが問題だ。
何故、リンじゃなければ駄目だったんだろう。どうして、彼女がこんな目に遭わなければならなかったのだろう。
責めるべき相手などいないというのに、気がつけば何故どうしてと繰り返していた。
この問いかけが無意味であることは、レンが一番知っているというのに。
決められた運命からは逃れることは出来ない。どんなに足掻いても。どれだけ願っても。運命はとても残酷で容赦なくリンの時間を奪っていくというのに、自分の時間はいっそのこと奪ってほしいのに、減ることもなく増えることもなく、何も動かない。
レンもまた、この死ねないという運命に捕われていた。
彼と違い友人は年老いていく。若い姿のままのレンを見てどう思うだろう。
きっと不思議に思うだけじゃない。異様なのだ、レンは。普通じゃない。
最初の一、二年はいいかもしれないが、五年後、十年後となれば話は違ってくる。いつまで経っても変わらないのね、じゃ済まなくなる。だからレンは、自ら外界との交流を遮断した。
病院だって何度も変わった。昔からの知り合いはもうきっとこの世に一人もいない。
リンはずっとこの病院にいると思っているようだが本当は違うし百年くらい生きていると言ってはいるが実際はもっとだ。
もう数えるのも面倒になる程で、年齢を聞かれても正直に答えるわけにもいかなかったからその場その場で適当に答えていたから忘れてしまった。
「レン?」
「なんでもないよ。今日の昼飯なに?」
「今さっき片付けたところだよ。酢の物とかだった」
「へぇ美味しかった?」
あんまり食べてない、とばつの悪そうな顔で視線を逸らされる。彼女が病院食を嫌っていることには気付いていた。好きな人間など数える程度しかいない気もするが。
「ダメだぞ、ちゃんと食うもん食って体力つけないと」
「だって美味しくないんだもん」
「だからって…」
レンの腹は減ることはない。恐らくこれからも、ずっと。
食事は本来生きるためには絶対に必要なものだ。そして生に必須なのは死という絶対的な運命。これ等を要さないレンは、生きながらにして死んでいる。
人々の死を見つめ受け入れ忘れないことが、レンに与えられた意味だ。忘却さえ許されず、どんな形でも生き続けることが。
「お腹、すかないのも結構寂しいものだぞ?」
もう長いこと食物を胃に入れていないせいで、既に受け付けなくなっている。喉は渇くから飲み物はよく飲むお陰で液体は吸収されるが、固体となると別だ。
胃が拒絶する。拒まれた固体は体外へ出すしかなく、無駄に体力を使うせいでレンは食べることをすっかり諦めた。
不思議なことに食に対する未練はなかった。
起きて、食べて味や食感を楽しみ遊んで空の蒼さに感動し、眠り夢を見てを繰り返し年老いて死んでいく。そんななんてことないことが、本当は何よりも大切で至福であることをレンは知っている。
何も変わらないようでいて、普通の人は歳を重ね、死へと向かっていくのだ。
そんな当たり前の変化をなくしてしまったから、周りの変化を見ることが己の動かぬ時をその度自覚して虚しくなる。
「…うん、あ、そういえばレン、起きたら先生のところに来てくれって言ってたけど……二人って仲良いよね」
「うん? ああ、…そうかな?」
最近はよく、リンの主治医である神威先生のところへ足を運ぶようになっていた。
「よく二人で話してるよね。レンの主治医でもあるの?」
「まぁね。それじゃ、行ってくる」
「うん。じゃあね」
いつものようにベッドに座ったまま手を振るリンの髪をくしゃりと撫でて、白い病室を後にした。
彼女と話せる時間は、一体どれだけ残っているのだろう。
死にたがりの君と生きたがる僕。【3】
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