5
ミスターの腕の中、肩を震わせながら口を開いた。
「僕は冬が好きだった。友達ともよく遊んだし、一人で雪の上で寝っ転がってぼうっとしてることもあった。」
なんで僕はいつのまにか雪の中で遊ばなくなったんだろう。
どこか遠くへ行っていた記憶が、雪が解け、次第に見えてくる地面のように、ゆっくりとしかし鮮やかに思い出されてくる。口を開くと涙が入り塩辛い。それでも気にせず言葉を紡いだ。
「僕にとって冬は暖かい季節だったはずなのに。日が暮れるのは早かったけど、冬のほうが雪あかりで夜も明るかった。星もよく見えた。星座なんてよくわからなくて、見つけられなかったけど、冬だけは、僕は、晴れてる日は毎日オリオン座を見つけられた。冬の夜だけは怖くなかった。冬はいつも僕を見守ってくれてた。なんでかなあ。冬の夜は安心した。
けどいつからか僕は、僕を見守ってくれてたはずの何かが見えなくなって、いつのまにかその何かの存在も忘れてた。ただ寒いだけの季節になって、雪が降ってもわくわくしなくなって。」
なんで。どうして。それはわからない。けれど僕は大きくなるにつれてどんどんと不自由になっていったんだ。
「ずっと絵を描くことが好きだった。描くことがただ好きで、描いてるだけで幸せだった。けど気づいたら息苦しかった。みんな応援してるって言った。けど違った。描けば描くほど苦しくて、それでも描いたけど、目も当てられないほど醜かった。僕が絵を勉強したいって言ったら父さんも母さんも、もっと普通の道にすればいいって言った。趣味でやればいいでしょって。わかるよ。父さんと母さんの言いたいことは。けど普通って何?ねえミスター僕にはわからないんだ。大好きなことを止めて、みんなの言う普通の道に進んだとしても、そこに何があるの?僕はきっとただ描き続けていた日のことを思い出しては苦しくなるってわかってる。
僕は自分で自分の絵を汚してしまうし、もうただ楽しいという思いだけで絵を描くことはできない。前を見ても真っ暗だけど、振り返っても何も見えないんだ。何のために描いてきたんだろう。」
気づいたら息ができなくなっていた。吸えば吸うほど苦しくなって、もがけばもがくほど体に巻き付いた鎖が僕を締め付けた。
父さんと母さんの言葉が、それまで大きな夢を語っていた友人が「普通」の道を選んでいく後姿が、突き刺すような冷たい風が、僕の心をじりじりと傷つけていた。
誰も悪くない。
もう僕はそれ以上何も言えなくて、けれど何も言わなければこのままミスターが消えてしまうのではと恐ろしかった。でもミスターはいつものように優しく語りかけてきた。
「知っていたよ。君のことを。私は君の描く絵が好きだ。変わっていないよ君の絵は。君が幼いころに描いた絵は、どこまでも純粋でまっすぐだった。君だけの目に映るものを、君はいつも真っ白な紙に写していた。大きくなってからも同じさ。君のその喜びや楽しさ、不安や悩み、やりきれない思い、そういったすべてを君はキャンパスにぶつけてきたのだろう。君の描く絵は君でしかない。君以外の何者でもないんだよ。
記憶と同じだ。今までの君の上に、新しい君が積み重なっていくんだ。
夢を追いかけろだとか諦めろだとかは決して私は言わないし、ましてや子供のころの純粋なままの君でいてくれなんて絶対に思わない。
ただ一つ君に伝えられることがあるとすれば、私はずっと君を見ていたよ。君が私のことが見えなくなっても、私はずっと君の中にいた。」
星が流れた。誰かの願いが、一つ、また一つと消えていく。
夢があった。譲れない思いがあった。大好きなことがあった。
怖かった。夢をあきらめることが。才能がないと認めることが。好きだと胸を張れなくなったことが。ただ楽しいだけではいけないことが。
「大人はそれが誰でも通る道だと言うかもしれないね。けれどそれは少し無責任な言葉だ。君は『誰でも』なんかじゃない。君はただ一人の君でしかない。
君の抱えている思いや不安、葛藤は全部君だけのものだ。その事実だけで私にとっては、君の抱えるすべてが愛しいと思えるよ。」
ミスターの腕をほどいて、その顔を見る。ミスターの瞳の中の星がきらきらと燃えている。
僕は泣いた。
ああ、僕は何度もこの小屋に来たことがあった。そしてこの初老の紳士と何度も話した。幼い頃の僕は何度も何度もミスターに会っていた。冬が好きだったのは、知っていたからだ。それはこの人の季節で、ミスターは僕をただ見守ってくれている存在で、ただ親愛のみをもって僕を受け止めてくれるということを。
幼いころ、すべてが友達だった。雪は夜道を明るくした。
瞬く星が夜空を飾り、星と星を線で紡げば、そこは僕だけのキャンパスになった。
肺の中を冷たい空気が満たす。
愛しい。ミスターが、キャンバスに描いてきた世界が、煌めく星が、冷たい風が、僕自身が。すべて愛しい。
僕はようやく息を吸えた。
6
ミスターは椅子から立ち上がり、背後にあった引き出しの中から小さな箱を持ってきた。
「これがなんだかわかるかい。」
ミスターがそういって箱から取り出したのは、輝く星だった。いつもミスターが夜空に上げていた星。
「誰かの願いだよね?消えてしまった夢」
「ああ。だけど消えているわけではない。
これは君の夢だよ。どうしてもこれだけは上げられなかった」
ミスターは泣かない。けれどそれでも箱の中の星を見つめるミスターには、いつもの余裕はないように見えた。
この星は、僕の夢。ミスターが守ってくれていたただ一つの僕だけの夢なのか。
「さあ、それではもう君に名前を返さなくてはね。
君は君でしかない。それは元の場所にかえったって変わらない。けれど名前がないこと、それを良しとしない人間も多くいるのも事実だし、なにより名前があれば君が君を見失わなくてすむ」
「ミスター、もう大丈夫。戻ってきたから」
「おや、そうか。それでは君の口から、直接君の名前を教えてもらおう」
この名前を口にするのはいつぶりなのだろうか。きっとここに来る前、その名前を当たり前のように自分のものとして述べ、自分にとっても他人にとってもただの記号と化していた時は、きっとこんな風に口にするのに緊張と喜びを味わったことはないだろう。ゆっくりと息を吸った。肺に入ってきた空気はもう刺すような冷たさではない。
「はじめまして、ミスター。僕は、はつ音です」
「はじめまして、はつ音。ああ、いい名前だね。
そうだ、雪の降る音はわかったかい?」
「ええ」
雪の降る音、静寂の中耳を澄ましていれば部屋の中にいてもそれは聞き取ることができた。元の場所に戻っても聞こえるのだろうか。二人きりではない、あの忙しなく、何かに追い立てられるよう走り続けなければいけないあの場所でも。けれど不思議だった。そんな世界が、今では愛おしくさえ思えた。
「それはよかった。春の初音は、鶯だ。その鳴き声は、君の名前と同じくらい美しい響きだろうね。」
7
二人で小屋を出た。けれどもうここには戻ってこれない。はつ音は確かにそのことを理解していた。
ミスターが遠くの一本杉に目をやった。つられてはつ音もそちらを見る。窓から見たあの杉には、まだ雪が積もっていたはずなのに、もうそこにはなかった。それどころか杉の向こうの地面はもう土が見えている。
「さあ、そろそろ行く時間だ。最後に君に魔法をかけてあげよう」
ミスターが、いつかのようにステッキを掲げ、地面をたたいた。するとそこから芽が出てきた。まるでガラス細工のようにきらきらと輝く美しいそれは、ゆっくりと空に向かってのび、つぼみをつけた。つぼみはもったいぶるかのように、徐々に徐々に開く。澄みわたった空気の中、現れたのは、花ではなく星だった。
まるで小さな太陽だった。
ミスターが優しくその星を両手にのせ、そしてそれを高く掲げた。星は夜空に呼ばれるかのように上へ上へと昇って行った。
無数の星の中に溶け込んでいったが、それでもその星は他のどれよりもひときわ明るく輝いていた。
「あれも誰かの夢だったもの?」
「いいや、あれは、あの星は、君が私にくれた夢だ」
「君が迷った時、この星が道標となるように。
君がどうしようもないほどの孤独を感じた時でも、この世に君は決して一人きりではないということを忘れないでいられるように」
「さあ、お行きなさい。どうか君のこれから進む道に希望があらんことを」
「Mr. Winter」
星が光る。春の柔らかな日差しを受けて。
「さようなら」
命の色は美しい星を映し、そして雫を落とした。
「さようなら。私の愛しい友よ。」
「always watching over you in this point」
振り返らない、もう振り返ってはいけない。
足を止める。踏みしめているのは茶色。
ミスター。
小さい小屋を最後に命の色に焼き付けた。
「オールウェイズ、ウオッチング」
優しい風が頬を撫でる。全てを覆っていた白はもうほとんどない。
「オーバーユー」
この季節を超え、蒼の季節を超え、紅の季節を超えれば、また白の季節がやってくる。けれど、もうここに来ることはない。もう二度と。
「イン、ディスポイント…」
白の季節が終わりを告げた。冷たく凛とし澄みわたった季節が、暖かく何も言わずただ静かに包み込む優しい季節が去っていく。静かに燃える美しい星は、この新しい季節を映している。そしてきっと柔らかに輝いているだろう。
「Good bye, Mr. Winter」
8
目が覚めた。部屋の空気はひんやりとしているが、凍えるほどではない。ベッドから下り、フローリングの床に足をつける。布団の中で暖まっていた足にはいささか刺激が強すぎるが、耐えられないほどでもない。窓の外を見ると、まだ薄暗いがそれでも日は昇っていた。
机の上には、ぐちゃりと握りしめられた画用紙があった。鉛筆と消しカスが、机の上にも床の上にも散乱していた。はつ音は屈み、椅子の真下に転がっていた鉛筆を拾い上げた。短くなった鉛筆。愛しい、と思った。描きたい描きたい描きたい。
僕はそのまま棚からスケッチブックを引っ張り出し、短くなった鉛筆でひたすらに描いた。
どこの風景なのだろう。ずっと昔に見た気がする。一本の大きな杉。
慣れた手つきで箪笥から服をだし、着替え始める。階段を下りると、コーヒーのにおいがした。
「あら、はつ音おはよう。はやいのね」
「おはよう母さん」
長い夢を見ていた。夢の内容は、もうはっきりとは思い出せない。けれど暖かい夢だった。星がきらめいていた。まっしろな景色の中、ぽつんと一つ小さな小屋があった。出迎えてくれたのは誰だったろうか。その名前にはもう霞がかかっていて、思い出せそうなのに思い出せない。
ホーホケキョ
「まあ、もうそんな季節なのね」
二人はそろって窓の外を見た。その姿はどこにも見当たらないけれど、たしかに声だけが聞こえた。
「鶯か。春の初音だね」
「あら。あんたよくそんなこと知ってるわね」
春はもう近い。
超えたら、また彼の季節に出会う。けれどもう彼には会えないだろう。少年は大人になった。もうあの紳士に会うことはできない。彼はフィルムの入ってないカメラのシャッターを、何度でも切るのだろう。そしていつもあの小さな暖かな部屋で少年を待っている。少年が来ないことを知りながら。けれど紳士も少年も同じ一つの星を見つめ続ける。二人の頭上を照らし続ける。
【Mr. Winter】どうかこの祈りが消えてしまわぬうちに(2)
【Mr. Winter】どうかこの祈りが消えてしまわぬうちに(1)
https://piapro.jp/t/uTbA
の続きです。
雰囲気作品。
スペクタクルPの楽曲が今も昔も大好きです。
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ファントムP
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kurogaki
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