25.もたらされた凶報
「……緑の国のミク女王が、青の皇子と婚約した」
なんだ、とリンは冷たい溜息をついた。それならとっくに知っている。ホルストにもいずれそうなるだろうと伝えたはずだ。
「……なお、ミク様は、譲位するおつもりはないそうだ。緑の国の女王として、青の皇子と結婚するそうだ」
「なんですって! 」
リンの目が、闇の中で驚愕に見開かれた。
「ミク様は、カイト様と結婚するなら女王を辞めるとおっしゃっていたわよね?!」
衝撃の言葉はさらに続いた。
「なんと青の国からすでに使者が発っただと!」
ホルストの抑えた悲鳴を、リンの耳はたしかに拾った。リンが倒れなかったのは奇跡だった。
ふらつきかける意識を叱咤し、リンは必死に耳を澄ます。ホルストと宿の主人のやりとりが、低くドアの外からしみこんでくる。会話の内容を十分に確認するとリンはドアの側から離れた。急いで荷物を漁り、乗馬用のキュロットを取り出した。
シャツを寝巻きから旅装に替え、キュロットを履きこみ、靴の紐をグイと締め上げた。
そして足音を忍ばせて窓に向った。
静かな星空が、外に広がっている。ここは二階だ。そしてリンの部屋の窓は、安全上通りに面していない。
音がしないよう、細心の注意を払って窓を開ける。思い切って身を窓枠に乗り出した。そして、腕で体を押し上げ、足が窓枠に掛かった瞬間、リンは思い切り跳んだ。
「……えいっ!」
さっと風がリンの体を包んだ。そして、半分砂漠と化した大地が、リンの踵を受け止めた。じゃっ、とわずかに砂が鳴る。くっ、とリンはすぐに身を起こした。
「レンの部屋は、一階よね」
建物の壁を沿うようにして、リンは走る。少女の軽い足音は夜の闇に吸い込まれ、寝静まった人々は気づかない。
「レン。……レン。気づいて。起きて」
レンの部屋の窓を叩く。こ、こっここっ、と節をつけた叩き方は、『リンです、開けて』の合図だ。
レンは目を覚まし、驚いた。昔はよく内緒で遊びに行くときの合図として使った音だ。
懐かしいが、忘れもしない。そして、なぜ、今、とレンは戸惑う。
「……リン、」
窓を開けたレンが王女様、と続ける前に、リンが窓に思い切り手をかけて部屋に乗り込んできた。
「ちょ、ちょっと!」
慌てて受け止めようとするも、リンの勢いはとまらず、レンはどさっと室内に押し倒されてしまう。
「レン! どいてなさいっていったでしょ! あたしは昔みたいに軽くないのよ!」
「……でも!なんで」
しっ、とリンがレンの上に馬乗りになったまま、レンの口をふさいだ。
「聞いて、レン」
リンが、そっと手を外して、レンの上から退いた。闇の中で、瞳だけが水面のように光った。
「あたしの幸せは、黄の国と共にある。……これから何があっても、信じてほしいの」
レンは、突然のリンの言葉に、あっけにとられて見つめるばかりだ。それでも、リンの真剣な表情を見て、うなずいた。
「うん。……分かってる。リンの笑顔は、国と共に。そして僕の幸せは、リンの笑顔だ。」
その返答にリンは腕を伸ばし、レンの腹の傷に触れないように彼をそっと抱きしめた。驚いたのはレンだ。喉まで出掛かった声が、喉につかえたまま固まる。
「レン。聞いて。今の黄の国の本当の状況を教えるわ」
そしてリンは手短に話した。水の使用にかけられた税は兵力の増強に使われること。ミクが女王の座を保ったまま婚約したこと。
「じゃあ、緑の国は」
リンはうなずいた。
「ええ。青の国と同盟を組んだ。……この青の使者の出発の早さ、あたし達がのんきに青の皇子の成人を祝っているころには示し合わせてあったわね。すでに」
ぞっとレンは震え上がった。黄の国と緑の国は、黄の国が緑の国の独立を許さなかったという過去のいきさつもあり、あまり仲のよい国同士とは言えない。その緑の国が、山脈を隔てて隣国となる黄の国よりも、その黄の国のライバル、海の向こうの青の国と手を組んだ。
それが何を意味するか分からないレンではない。今、豊かな青の国。そして今、民が苦しみあえぐ黄の国。そして、工芸と商業で発展し、底知れぬ力を持つ、緑の国。
「仕掛けたのは、青か緑か……とにかく、『来る』のだね」
「ええ。青と緑が、弱った黄の国を『喰いに』くるわ」
リンがしずかに目を伏せ、レンの言葉を肯定した。
「あたしの幸せは、黄の人々、皆とともにあるはずなのに、このままでは弱った人、弱った国は、強いものに食われてしまう。……でも、そのほうが幸せだと、レンは思う? ホルストの言うように、強い人だけが生き残ったほうが、黄の国は幸せになると思う? 青の皇子やミク様に養われたほうが、黄の民は幸せだと思う? 」
レンは、静かに首を振った。
「ん、なんか、やだな。感情的に」
レンの言葉に、リンは口元をほころばせた。
「そう?」
「そうだよ! もしリンが女王なら、弱いものは死ねと国の民に言える? それに、強い国が弱い国を食うことが当たり前だと認めることになるよ。それって、いいの? 」
リンは闇の中でにっこり笑った。
「いいえ。あたしの目標は、すべての黄の民の幸せよ」
レンもにこりと笑い返した。
「……リンがそう言ってくれて、嬉しい」
くす、とリンが笑う。それを見て、レンがくすくすと笑った。
「ねぇ、レン。あたしと、駆け落ちしてくれる? ……行き先は、王都」
レンが、リンを見つめる。そして、静かに微笑んでうなずいた。
「……決めたんだね」
その瞬間、リンの目から涙が溢れた。
「どうして、分かったの……何も言わなかったのに」
今度はレンの手が、リンを強く引き寄せ抱き返した。
「分かるよ。リンのことなら、何でも。……僕らは血を分けたきょうだいだもの」
ぐっ、とレンの胸の上で、リンがうめいた。
「それにね。……分けたのは、血だけじゃないよ」
とん、とレンの手が、抱きしめたリンの背を優しく叩く。
「その思いも、分け合うと誓った」
ちょうど心臓の裏側を、レンの手がとんとんとノックする。
「4年前、リンが王位継承者となることが決まったとき、たとえ身分が離れても、僕の心はともにあると誓った。……僕達は、思いも、心も分けた、本当の双子なんだ」
「レン!」
リンが大きくしゃくりあげた。かみ締めた奥歯からは息の音しかしない。それでも、リンが感情を明かすのは、いつだってレンの前だけだった。
「あたしは、そのとき誓ったわ。お父様とお母様のいうとおり、立派な王になるって。ご病気で動けなくなっていくお父様とお母様に代わって、立派に国を治めていくって……」
全身が震え、熱くなっていく。レンがさらに強く引き寄せ、レンもリンの肩に顔を埋めた。
「レン……もし、もしも、あなたが嫌なら、あたしを今ここで、殺してちょうだい」
低い、決意をこめた声が、レンの胸元にしみこんだ。
「あなた、なんて呼ぶな。僕はリンに守られるだけの国民じゃない。……きみのきょうだいで、リンを一番支える者だ」
リンの震えが止まった。そして、リンはゆっくりと体を離した。
「ごめんね、レン」
窓の外の雲が切れた。星明りが部屋に差込み、リンを背中から照らした。闇の中に神々しく金色の髪と白い肌、澄んだ瞳が浮かび上がる。レンはその光景に息を飲んだ。
歴史が、動く。ぞくり、と肌があわ立った。
「レンには、謝るわ。ごめんなさい。……あたし、女王に、なるわ」
レンが、ぐっと奥歯をかみ締めてうなずいた。
「事が急に動いたの。もう待てない。一刻の猶予も無いわ。……あたしは、王位を、獲る」
レンが顔をゆがめたのはほんの一瞬だった。泣き出しそうにゆがめた顔を、そのまま腕でこすり上げ、そして彼も静かに微笑んだ。
「いつか、こういう日が来ると思っていた」
レンの瞳から涙が航跡をひいたのは、ほんの一瞬だった。
「……リン王女殿下。このようにお呼びするのも、これで最後にいたします。
リン様。王殿下、王妃殿下を弑(しい)し奉り、……この国の王に、お就きください」
レンがまっすぐにリンを見た。その決意を、リンは受けた。
「では行くわよ。レン。……王女不在の情報が王都に届く前に、全てを成し遂げるわ」
この町は王都まで三日の距離。レンも旅の服装に着替え、ふたりはそっと宿を抜け出した。
続く!
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ryemugi
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