左隣の家の前を通るとき、私はいつもその家の二階の、小さな縦長の窓を見る。そこには窓の枠にぴたりと収まるようにして、灰色の猫が座っている。ガラス越しに、こちらを見下ろしているのだ。

 その家は古い家だった。妻が、築五十年にはなるだろうとどこかで聞いたと言っていた。
 最近は居住性やらエコやらで、つい十年ほど前とは、家というものの様式はずいぶん変わった。鉄筋の角張った形、無機質な色の汚れにくい外壁、屋根にはソーラーパネルやいくつものアンテナが取り付けられ、庭はあっさりしたコンクリートが敷かれ、てかてかの車が停まっている。私の家も、ほとんどそうだ。
 そうした流行に乗り、この団地の家々がどんどん『今風』に増改築をしていくなかで、うちの左の隣家だけは時代に取り残されたように、重苦しく、錆び付いた雰囲気を漂わせているのだった。
 赤黒い瓦屋根に、薄汚れた茶色の壁。雨戸はいつも閉じており、縁側は足が折れて傾いている。二階のベランダも同様だ。狭い庭には車も自転車も、それを置く場もない。土に一本のアカマツの木が植えられているだけで、あとは雑草だった。端には塗装の剥がれた物置が据えられているが、それが開いた様子を見たことがない。石垣で四方を覆い、唯一の出口は南側の道路のすぐ脇にある門扉だ。そこから雑草の隙間に、土地の奥まで石畳が延びていて、裏の家のすぐそばに、やっと玄関がある。玄関と言っても、ただドアと明かりがある、質素すぎるものだ。
 私と家族は、二十年前にこの団地に引っ越してきた。左隣の家には、老夫妻が住んでいた。今も家の形は変わっていないが、二十年前は雨戸は開いていたし、庭もよく手入れされていた。夫妻と挨拶を交わすことは多かった。背筋がまっすぐで、芯の通った話し方をする二人だった。若かった私は、老いてもかくあるべきだと感嘆していた。
 そして二十年が経った。ある日、ふと隣家の庭を覗き、雑草の群に顔をしかめたとき、隣人の顔を久しく見ていない
ことに気がついた。目線を上げると、小さな縦長の窓に、灰色の猫が居るのが見えた。それが、私と猫の出会いだった。
 それから、私は通りがかりにその窓を見ることが多くなり、いつしか習慣になっていた。猫は、最初はごくたまに居るだけだったが、ここ最近は見かける頻度が多くなったように思える。私が当然のようにあの窓を見ているせいか、もしくは、猫があの窓に長くいるようになったからだろう。
 猫は灰色の身体に、青い瞳をしている。とても美しい猫だ。私が立ち止まっていると、猫はじっとこちらを見据えたまま動かない。
 私は、その猫のことを気にするようになった。いつからあの家にいるのか、餌は食べているのか、雄なのか雌なのか、どんな鳴き声なのか、毛繕いはしないのか、もしかしたら、ただのぬいぐるみなのではないか。猫のついでに、隣人のことも気になった。老夫婦は今もあの家に住んでいるのか、いないとしたら、なぜ知らせが来ないのか、なぜ雨戸を開けないのか、なぜ庭の手入れをしないのか、誰が猫の世話をしているのか。
 インターホンは壊れていた。門扉を開ければ入れるのだろうが、そうまではしたくない。見上げると、縦長の窓に、また猫がいた。美しい青い目だった。
 妻に聞いてみたが、隣家の窓を凝視するなんてどうかしてる、とあしらわれた。その通りだ。だが、私は隣家の前を通り窓に佇む猫を見つけては、猫の瞳を凝視した。猫は、透き通った海の水を結晶にしたような瞳で私を見下ろしていた。
 ある夕方、スーツを着た男二人が隣家の前に立っていた。私は挨拶をし、インターホンが壊れていることを言った。男二人は去っていった。二階の窓を見ると、猫が居た。猫は青い目で、去っていく男たちを見つめていた。やがて見えなくなると、私の方を向いた。私はしばらく見つめたあと、家に帰った。翌日、私は隣人に会った。

 深夜0時のことだった。家族が煙草を嫌うため、私は家の庭で吸っていた。曇った夜空を眺めていると、隣家のドアが唐突に開き、人影が出てきた。やせた老人のようだ。私はどきりとして、息を潜めて様子を見ていた。
 街灯に照らされた顔は、皺がかなり増えているが、隣人のものだった。彼は門扉まで歩き、郵便受けの中身をごっそり持ち出して、玄関に戻ろうとした。私は思わず声をかけた。
「こんばんは」
 彼はするどい目でこちらを睨んだ。私はかまわず、最初に灰色の猫について訪ねた。しかし彼はなかなか答えず、訝しげにこちらを見るだけだった。耳が遠くなったのかもしれない。私は煙草を掲げてみせた。やがて彼はぶっきらぼうに言った。
「俺の家に猫などいない」
 二階の窓は、暗くて見えなかった。私が何度も見たことを言っても、老人は相手にしてくれなかった。やがて老人は乱暴に扉を閉め、家のなかへ戻ってしまった。
 それきりまた、隣人に会うことはなくなった。だが灰色の身体に青い目の、美しい猫は今でも、ときどき窓辺に座っている。
 あの猫はいつまでいるのだろう。あの窓から道行く人を見つめている時、猫はなにを思っているのだろう。
 私は今も、あの猫のことを気にしている。

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隣家の猫 (掌編小説)

閲覧数:94

投稿日:2011/06/10 23:15:22

文字数:2,126文字

カテゴリ:小説

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