Extra 数年後:某日
今日は、彼女がやってくる。
私のただ一人の……かけがえのない親友が。
私は幼子を胸に抱いて、わが家とも言える旅館の玄関で彼女がやってくるのを待っていた。
玄関の外に見える日本庭園には、うららかな陽光が降り注いでいて、今日の天候が快晴なのだと教えてくれている。
腕の中のわが子が声をあげてぐずる。
「……未来。仕事はまだ早いよ。この子だって――」
私と息子のことを心配してそう言ってくれる旦那様に、それでも私は首をふる。
「ここでお出迎えするだけだから。それに、今日はあの人が来るのよ」
「それなら、来たときに未来を呼ぶようにするから」
「ダメ」
私はきっぱりと旦那様にそう告げる。
「私、あの人が来るまではここにいるわ」
「……わかった。けど――」
「わかってる。この子がこれ以上泣くようならあきらめるから」
「……」
旦那様は、仕方ないなぁ、という様子でため息をつくと、渋々奥に引っ込んでいった。
「女将、いいんですか? あんな風に追い返しちゃって……」
「あの人なら大丈夫よ。それにこの子も……ほら、結構ここが好きみたいだし」
胸元に視線を落とすと、ついさっきまでぐずっていたわが子は、受付のお姉さんを興味津々に見つめながらきゃっきゃと笑っている。
その姿に、お姉さんも思わず破顔した。
この人は私より七、八歳ほど上の大先輩で、お義母様が第一線から引いた今ではこの旅館で一番の古株だ。旦那様が働き始める前からずっと、ここの受付でいろんなお客様を見てきている。私が初めてこの旅館にやって来たときに迎えてくれたのも、やっぱりこの人だった。
私は、ようやくここの女将が板についてきたかな、と思えるようになってきた。そんな私がこの旅館の表の看板だとするなら、受付ですべてのお客様と顔を合わせるこの人は、この旅館の裏の看板だ。何年も前に一度しか来たことのないお客様でも、ちゃんと顔を覚えているのだから……私もできるようにならないと。
今日来る予定の私の親友がこの旅館に初めて泊まりにきたのは、私が若女将として働き初めて三年が過ぎた頃のことだ。
あの時、久しぶりの親友との再会に、私と彼女はずいぶんと話し込んだ。
ビックリしちゃうような告白があった。
彼女は今まで誰にも見せたことのない涙を流して……そして、これまででもっとも晴れやかな笑顔と共に去っていった。
あれから何年もたった。
もちろん、それから彼女は何度もここを訪れている。彼女は私と――ここの若女将と親友なのだ。従業員の皆ともすぐに打ち解けてしまって、彼女の場合は旅行に来たというよりも、実家に帰ってきた、といった雰囲気になってしまっていた。
普段は一人で来ていたけれど、一昨年に一度だけ、彼女は自らの叔父さんの一家をここに招いた。
それは、彼女の変化の一端を示す好例といえる。
そして、その時になってようやく、彼女は自らの家庭事情を私に話してくれた。
それもまた、私には驚きの連続だった。
同時に、それはなかなか他人に話せることじゃないな、と納得もした。
今までむやみに追求せず、知らずにいた彼女の過去。
その、私の苦痛さえ大したことなかったかも、なんて思えるほど壮絶だった、彼女の記憶。
私たちはまた抱きあって泣いて……私は、彼女の重荷をまた一つ下ろすことができた気がした。
でも……私がその役目を担うのも、もう終わりになるだろう。
玄関の自動扉が、音もなく開く。
「未来! 久しぶり!」
元気よく手を上げる彼女は、いつも通りスタイルがよくて、綺麗で、カッコいい。
「当旅館によくお越しくださいました。女将の未来と申します」
「ちょっと未来、なんでそんなにかしこまってるのよ」
「あはは。やっぱり、しっかりしてるんだなってところも見せないとね」
「未来らしーなー。……で、その子が?」
挨拶もそこそこに、彼女は私の胸元の赤ちゃんに目が吸い寄せられる。
「そう! まだ六ヶ月。元気な男の子なんだよ」
「わー。可愛いー」
彼女が私の赤ちゃんをのぞきこんで、子どもみたいにはしゃぐ。
「ほら、おいでよ。可愛いから」
彼女はそうやって、一緒にやってきたもう一人の女性を呼ぶ。
「でも、その……」
彼女のすぐ後ろにたたずむ、おとなしそうな黒髪ロングのストレートの女性が、ちょっと恥ずかしそうに、気まずそうに遠慮がちな声を上げる。線の細い端整な顔が、困ったように眉根を寄せていた。
「赤ちゃん好きって言ってたじゃない。大丈夫だから、ほら」
そこまで言われては許否できなかったのか、おずおずとその女性が手を伸ばす。
女性の指先をぎゅっと握って、うちの子はきゃっきゃと声をあげた。その様子に、女性の顔も思わずほころぶ。
「……かわいい」
「でしょ? 未来と海斗さんの赤ちゃんなだけあるわよねー。親が美男美女だとこうも変わるか」
女性相手に屈託なく笑っているのを見て、少しだけ不安になる。
……もしかしてこの子、生粋の女たらしになってしまうんじゃないだろうか。
「そうだった。未来の赤ちゃんのことも重要だけど、この子も未来に紹介しなきゃいけないんだった」
ごく普通に、当たり前のことのようにそう言い出す彼女に、女性は焦ったような声を出す。
「え、その。私は――」
そりゃそうだ。
そんな簡単に他人にカミングアウトできるようなことじゃないだろうし。
「大丈夫。未来はわかってるから」
「その……メグ? さすがにもうちょっと、この方の気持ちも察してあげた方が――」
私が言っても仕方のない指摘だったとは思うけれど、言わずにはいられなかった。
「まあまあ。あたしがやっと見つけた、未来より上の逸材なのよ。自慢したくもなるでしょ」
彼女のような華やか系の美人とは違う、物憂げな表情が似合いそうな和風美人だ。彼女が自慢したくなる気持ちもわからなくはない。
「ちょ、ちょっと……」
顔を真っ赤にさせて、女性はうつむいてしまう。
その肩を抱いて、彼女はにかっと笑って見せた。
今までで一番楽しそうな、幸せを満喫しているって感じがよく伝わってくる。あの時の晴れやかな笑顔よりもいい笑顔をしてるな、なんて思った。
「へへー。あたしの恋人。名前は――」
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