とある国の郊外に存在する鬱葱とした森。そこを抜けた先には豪華な館がぽつりと建っていた。
館の主の名はバニカ・コンチータ。かつてはこの世の食を極める為に諸外国を遊覧し、美食家として名を馳せていた彼女は、いつしかこの地に腰を据えて、三人の使用人と共に静かに暮らしていた。
館の厨房では、コンチータに仕える使用人全員がそれぞれの作業に追われていた。その中の一人、青い髪のコックが目の前のフライパンから目を離さず、手を止めないまま声を上げた。
「リン! こっち手伝って!」
「無理。一人で頑張れ」
リンと呼ばれたメイド服に金髪の少女は、コックに顔を向ける事も無く、全く興味がなさそうに言い捨ててから付け加える。
「こっちも忙しい」
リンが立つすぐ傍の作業台には、これから片付けなくてはならない食器類や調理器具が山となって積まれており、流しの中も使ったままで汚れている皿などで埋め尽くされていた。
「なら僕がやる。カイトさん、いいよね?」
無邪気な笑顔を浮かべてコックの傍に移動したのは、リンと全く同じ色の髪を短く結んだ、召使姿の少年だった
「じゃあ頼むよレン。そこにある料理を運んで行ってくれないか?」
カイトは手を動かしたまま顔だけを後ろに向けて、作業台の上に置いてあった料理の載った複数の皿を示す。温かく湯気が立っているものがあれば、水水しい野菜が乗ったものもある。
どこに運ぶか、なんて事はわざわざ聞く必要は無い。レンは慣れた手つきで複数の皿を一度に持ち、落とさないように注意しながら厨房の出入り口へ向かって歩き出す。
「コンチータ様、喜んでくれるかなぁ?」
初めて料理の載った皿を一度にいくつも持てた時、凄いと褒めてくれた。この館に来るまでは、リン以外に自分を褒めてくれる人なんていなかった。
お前は頭が悪い。周りからそう言われ続けていたが、そもそもレンには『頭が悪い』『頭が良い』と言う意味そのものが分からない。どう言う事が『頭の悪い事』で、どんな事が『頭の良い事』なのか。それをレンが聞くと、周りの人は急に黙り込んだ後、そう言う所がだと捨て台詞を残して去っていった。
答えられない事を指摘されたから、あいつらは自分の馬鹿さを認めたくないからレンに八つ当たりするのだとリンから言われた。だが、その言葉の意味すらもレンは理解できず、訳が分からなくなるばかりだった。
通り道を塞ぐようにして流しの前に立っていたリンに気が付き、レンは足を止めないまま口を開く。
「リン、そこどい、てぇ!?」
厨房の床は段差が無く、余計な物も置いていないので躓く要素は無いのにも関わらず、レンは歩きながら自分の右足で左足を蹴飛ばして、勢いよく前へよろめいてしまった。その拍子で手を開いてしまい、持っていた皿が宙に浮く。
このまま転ぶと思い、レンは目を閉じる。暗くなった視界の中でリンの鋭い声が耳に届いた。
「危ない!」
リンは叫ぶと同時に作業を中断して瞬時に移動し、前に倒れかかっていたレンの体を自分の体で支え、水で濡れていた両手と腕を使って宙に浮いていた皿を受け止めた。レンが転ばなくて良かったと安堵し、リンは皿の上に乗っていた料理に視線を向ける。幸い盛り付けは崩れておらず、一つもこぼれ落ちていない。
腕に乗っているだけの皿を落とさぬように注意を払いつつ、リンは寄りかかったままのレンに声をかけた。
「レン、危ないから皿が多い時はお盆か台車を使えって前も言ったでしょ」
やや呆れた、しかし優しさが込められた言葉を聞き、レンは目を開いて自分の状況を理解してリンから離れた。
「だって……。お盆が見つからなかったし」
レンはしょんぼりと顔を下に向けて小さな声で話す。別に怒っている訳ではないのにとリンは言葉を続ける。
「そんな時は私やカイトに聞く! 特にカイトはこき使って構わないから」
「うん。分かった」
何でそうなる!? と言う叫びが背中側からしたが、レンはそれに全く気が付かないまま素直に頷いた。
一度全ての皿を作業台に置いて、お皿の濡れた所拭いておいてとレンに頼み、リンは自分の手をタオルで拭き取り、棚にしまってあった盆を取りに行く。すぐに戻って来てから手際良く四角い盆の上に皿を乗せていった。
「はい出来た。しっかり持ちなさいね」
料理が冷めない程度に急いで、でも転ばないよう足元に気をつけるように言って、リンはレンに料理の乗った盆を手渡した。
先程のしょんぼりとした気分は何処へ行ったのか、レンはぱっと顔を輝かせて笑顔になる。見れば誰もがつられて笑ってしまうような、打算も計算も無い、純真無垢な笑顔だった。
「ありがとう!」
行ってくるねと明るく言い残し、レンは厨房から去って行った。その背中を見ていたリンは、またレンが転んだりしないかを心配したが、多分大丈夫だろうと気持ちを切り替え、中断していた作業に戻る。
作業台に積み上がっていた食器類を全て棚に納めて、残っていた洗い物を片付けてしまおうと流しの前に立つ。
汚れが少ない物から多い物へ順々に洗い、大きな食器に小さな食器を重ね、泡をまとめて水で洗い流していく。そうして洗い終わった物を、流しの隣に置いてある大きな水切りかごの中に立てて納めていった。
目の前に残っていた仕事を終わらせ、リンは息を吐いて呟く。
「やっと終わった……」
主のコンチータの晩餐が終わればまた忙しくなるが、それまでは休憩が出来る。休む間もなく動き回っていたが、仕事が一区切りついた事に安堵して気を緩めた瞬間、脇から使い終えて汚れたフライパンとその中に入れられた調理器具が差し出された。リンはわざと聞こえるように舌打ちをして振り向くと、フライパンの持ち主は気まずそうな表情をしていた。
若干顔を強張らせていたが、出した手前引っ込みが付かなくなったカイトは、睨みつけて来るリンから目を逸らさずに口を開く。
「あの、終わった直後で悪いけど、これ頼めるかな?」
「少しは空気読めアホコック」
カイトから半ば奪い取るようにフライパンを受け取り、リンは不機嫌な気分を隠す事も無く手にした道具を洗っていく。手つきこそかなり乱暴だが、汚れの欠片も残す事無く終わらせ、水切りかごの中にフライパンと調理器具を置いた。
今度こそ終わったと水に濡れた手をタオルで拭き取り、休憩をする為に重ねた椅子が置いてある厨房の隅へと視線を向ける。
カイトが気を利かせたのか、既に椅子は作業台に沿って三つ置かれていた。余計な手間を増やしたのだからこれくらいするのは当たり前だと思い、リンは椅子に腰を下ろす。
仕事に集中していて気が付かなかったが、体は食べ物を求めていたらしい。空腹を訴える音が耳に入り、リンは両手を重ねて腹の上に乗せる。
「お腹空いた……」
呟いた直後、作業台に何かを置いたような音が聞こえた。同時に食欲をそそる匂いがリンの鼻に入り込む。
「ご飯出来てるよ」
いつの間にかカイトが盆を持ってやって来ていて、料理の乗った三つの皿と三人分の食器を並べていた。先程レンが持って行った物はコンチータが食べる晩餐の為の料理であり、今カイトが作業台に乗せているのは、使用人の三人が食べる為に作ったまかない料理である。
「気が利くのね。うだつは全く上がらない癖に」
相手が年上である事に何も構う事も無く、リンが情け容赦無しに言い放つと、カイトは盆に乗っていた物を全て並べ終えた後、力無く肩を落とした。
「……前から言おうと思ってたけど、俺とレンでは随分態度が違うんじゃない?」
「気のせいよ」
被害妄想は止めて欲しいとリンは間髪をいれずに返す。被害を受けているのは自分なのに、何故逆に責められなくてはならないのかと思ったカイトは言葉を続けた。
「いや、多分俺の気のせいじゃ無」
「気のせいだから」
「どう見ても違」
「気のせい」
訴えを最後まで言わせてもらえず、カイトは再び肩を落とす。このままリンに言っても相手にすらされないだろう。諦めた方が良い。
理不尽だ、と小さな声でカイトは嘆いた後、ふと厨房の時計を見る。
「……レン、遅くないか?」
料理を運んで行っただけにしては時間がかかり過ぎている。今日の晩餐には誰も付かなくて良いとコンチータから言われていた為、誰かが傍に付く必要も無い。だが、もしかしたらコンチータの気が変わり、傍にいるように命じられたのかもしれない。このままではせっかくのまかない料理も冷めてしまう。
時計を確認したリンが椅子から立ち上がる。
「様子見て来る」
「一緒に行こうか?」
カイトも椅子から立ち上がる。だが、一人で充分だときっぱりと断ってから、リンは足早に厨房から去って行った。
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ご意見・ご感想
june
ご意見・ご感想
注目の作品入りおめでとうございます。
これは修正をアップしたものでしょうか?
まだmatatab1さんのこのシリーズの作品は読破していないので、今から読んでこようかと思います(笑)
2012/09/24 23:00:31
matatab1
一年半前の作品ですが、メッセージありがとうございます。
携帯登録もツィッターもしていないのに、注目の作品追加のメッセージが入ってて何事かと思いました。
アップはしていない……筈です。これに限らず、誤字脱字を見つけた時にこっそり修正はしていますが(笑)
このシリーズは他の長編に比べるとかなり短めですね。自分では中編としています。
2012/09/25 18:20:39