結局、ライブには行けなかった。とシンは傍らに置いている腕時計に目を落とし、ため息をついた。
先日、ルカと喧嘩してからぎくしゃくした空気が2人の間には流れていた。喧嘩するのは初めてではなかった。むしろ最近は喧嘩なんかしょっちゅうだった。けれどここまで長引いたのは初めてで、お互いに謝るタイミングを計りかねていて、なんともいえない微妙な雰囲気が部屋中に漂っていた。だから、仲直りの意味もかねて今回のライブには必ず行こう。そう思っていたのに、結局仕事が終わらなかったのだ。
ここ最近、本当に忙しくてルカと出かけることもなかった。だから、この仕事が終わっているはずの次の休みの日には、ルカが行きたがっていた水族館に行こう。疲れた目頭を揉み解しながらそんな事をシンが思っていたときだった。
がちゃん。
と、荒々しく玄関が開いてルカが帰ってきた。ただいま、も何も言わずルカは部屋に入ってきた。無表情のルカを見て、どうしたんだろう。何かあったのか。とか考えるよりも先に、外は寒かったのだろうな、ルカの白い頬が冷たそうだな。とシンは何故か的外れな事を思った。
「、、、お帰り。」
とりあえず、声をかけてみる。と、信じられない。とでも言うようにルカは目を見開いた。
白い頬に、さっと赤く血の気が上る。怒りを露にルカは上に手に持っていた荷物をソファへ乱暴に投げ捨てた。がちゃがちゃ、とかばんの中に入っていたポーチや携帯なんかが音を立ててずり落ちる。
「ルカ、どうしたんだよ。ライブで何か失敗でもしたのか?」
荒れたルカの行動にやっと驚いてシンがそう尋ねると、ルカは顔を上げて、きっ、とシンを睨み付けた。
「ルカ?」
「なんで今日、来なかったの?」
そうルカが言った。怒気をはらんだその声に、シンもまた意味が分からず混乱しながら、なんだよ。と言った。
「忙しかったんだよ。それにルカ、来なくてもいいって言ったのはお前だろ。」
「それでも、来るって言った、言ったじゃない。」
そうルカが金切り声を上げる。感情的なルカの声や態度につられてシンも声が荒くなる。
「仕事が立て込んでるんだから仕方が無いだろ。なんなんだよ、最近のルカ。俺が忙しいの知ってて、我侭ばっかり言って、俺を困らせて。楽しいか?」
「楽しくなんか無いよ。わがままも、私、言ってない。」
そう言い放って、ルカは机の上に積みあがっていた資料の山をばさばさとぶちまけた。
プリントアウトされた紙が部屋中に散らばった。舞い上がった紙片が周囲の視界を遮る。あっけに取られたシンの前でルカは、今度は本棚からシンが書いた本を取り出し、床に叩きつけた。
「こんなの、、シンが書いた本なんか、面白くない。全然、面白くない。仕事だって、シンなんか、たいした事してない。」
「ルカ。」
かっと血が頭に上り、無意識のうちに手が伸びた。ぱん、と乾いた音がルカの頬を叩いた。指先に残るルカの柔らかな感触が、自分がした行為が、シンを我に返した。
ルカは泣いていた。大粒の涙をとめどなくあふれさせて、怒りと、戸惑いと、後悔とがない交ぜになった眼差しでシンのことを見つめていた。
泣かせた。大好きで笑っていて欲しくて、いつも傍にいたいと願った女の子を、泣かせた。
「ルカ。何で、そんな事言うんだよ。」
もうどうすればいいのか分からなくなって、困り果てたシンがそう言うと、ルカは顔をくしゃくしゃにしてぽろぽろと涙をこぼし、大嫌い。と言った。
「シンなんか、大嫌い。」
そう泣きじゃくりながらルカは呟くように言い、呆然と立ち尽くすシンを尻目にソファーからカバンを掴むとそのまま出て行った。
何で、こんな事になっているんだろう。
紙片が散乱している部屋の中、シンは床に座り込んで頭を抱えた。
ルカの放った言葉が一つ一つ心に突き刺さっているようだった。自分が書いた本が面白くない、だなんてルカにだけは言われたくなかったし、仕事がたいした事無い、なんて事も言われたくない。
何より、ルカに本気で、大嫌い。なんて言われるなんて思ってもいなかった。
視界の端で、ルカの携帯が床に落ちているのに気がついた。さっきカバンから落ちたままルカは拾っていかなかったのだ。これじゃあ、今ルカがどこにいるのかも、謝りのメールを入れることも出来ない。とシンは暗澹たる気持ちになった。
しばらくこうして頭を抱えていたかったが、仕事が立て込んでいるのでそうは行かない。のろのろとシンは動き出し、叩きつけられたままの姿の本を拾い上げて丁寧に本棚に戻し、散らばった紙片を拾い集めた。
窓の外は暗く、寒そうで。ルカが一人で寒い中いると思うとたまらなかった。どこか暖かい店の中にでも入っていれば良いけれど。
「、、、っ痛。」
紙片の端で指先を切り、赤いしずくが滴り落ちる。
何を、しているのだろう。これはいったい、なんなのだろう。
踏んだり蹴ったりだ。と、虚脱感に襲われたシンが切った指先を舐めていると、携帯が鳴り、部屋の固まった空気を揺らした。
ルカからかもしれない。と慌ててシンが電話に出ると、予想に反してその電話はカイトからだった。
「もしもし、シンちゃん?大丈夫?」
どこかとぼけた調子でカイトが電話先で言う。その調子に軽く苛立ちを覚えながらシンは何それ、と言った。
「、、、何、大丈夫って。」
「うん、ルカさんが泣きながら家に来たから。今、メーちゃんがルカさんの傍にいるよ。」
そうあっけなくカイトの言葉でルカの所在が判明する。その言葉にシンはほっと息をついた。
「そう、メイコさんの傍なら、安心だ。ありがとう。」
「ルカさん、凄く泣いてるよ。シンに酷いことを言っちゃった。って言ってる。」
「うん、、、酷いこと、言われた。」
そうため息混じりに言うと、カイトはしょうがないよ。と言った。
「酷いこと言われるようなことしたんだもん、シンちゃん。」
「何だよそれ。」
カイトの言葉に心当たりがなく、シンが微かに首を傾げていると、電話の向こうでカイトが一瞬口ごもった。
「、、、あのさ、シンちゃん。今日、何の日か覚えてる?」
「今日?」
「ルカさんの誕生日だよ。」
あ、と本当に馬鹿みたいにぽかんと口を開けて、間の抜けた声を発していた。
すっかり、忘れていた。
「あ、あー、、、。そうだった、、、。」
本当、酷いことを言われても仕方が無い。
再び頭を抱えて座り込んだシンの耳に、カイトののんびりした声が響いてくる。
「最近のシンちゃんとルカさん、喧嘩ばっかりだよね。あまり一緒にいるところも見ないし。」
「、、、ホント。何やってるんだろうな。」
そう自嘲気味にシンが言うと、カイトはほんの少し考えるように間をおいて、言った。
「大丈夫?シンちゃんが今、忙しいのは知ってるけどさ。でも、大切な事おろそかにしてない?」
そう諭すような言葉に、シンはうう、と呻いた。
「分かってるよ、、、。分かってはいるんだけど。」
「けど、何。何を言っても言い訳だと思うよ。」
それはいつものカイトとは思えない、冷たい言葉だった。
再び何か言おうとして、シンは口を閉ざした。何か言おうと考えれば考えるほど、言い訳しか浮かび上がってこない自分がたまらなく嫌だった。
何を間違えて、何を大切にしないで、こんなことになっているんだろう。
「、、、ルカと、話がしたいんだけど。」
そう搾り出すようにシンが言うと、カイトはちょっと待ってて。と言い、しばらくして、もしもし。とくぐもった、けれど耳に馴染んだ声が聞こえてきた。
「、、、もしもし。」
甘い、ほんの少しかすれた声にシンの胸が痛んだ。
「もしもし、ルカ?」
そう名を呼ぶと、電話の向こう側で、うん。と小さく返事が返ってきた。
「ルカ、ごめん。」
「、、、うん。」
「誕生日忘れて、ごめん。ピアノ弾いてあげなくて、ごめん。、、、酷いことを言わせて、ごめん。」
「、、、うん。」
言葉が途切れ、シンもルカも言葉を継げず、押し黙ってしまった。何を言えばいいのか分からず、しかし何か言おうとして、シンは口を開いた。
「、、、ルカ、誕生日おめでとう。」
口から出た言葉はあまりにもこの状況にそぐわない、お祝いの言葉だった。なんかもう、今更な言葉を口走ってしまった自分自身にシンは再び頭を抱えたくなった。が、シンの間の抜けた祝福に電話の向こうからルカがありがとう。と小さく返事を返してきた。
「、、、ありがとう。」
ルカの声に湿り気が帯びる。泣いているのだ。と気がついた。せき止めていた物があふれ出すように、ルカの嗚咽が耳に響く。
「私も、ごめん。ごめんなさい、シン。」
泣きながらルカがそう言う。まるで何かを繋ぎとめようとするような、必死な気配がそこにはあった。繋ぎ止めたいものは、繋がっていたいのはこの手なのだろうか。そう思いシンは、自分の手のひらに視線を落とした。
不意に、真っ黒い不安がシンを襲う。
まだ、伸ばした手の先にルカはいるだろうか。この手はルカと繋がっているだろうか。
あの時はまだ、繋がってはいた、と思う。けれど。とシンは思った。酷く絡まっていて、どう繋がっているか分からなくなっていた。本当は、からまった糸を解いたら途中で切れていたのかもしれない。その不安ははっきりと存在していたのに、お互い気がつかないふりをしてからまったままにしていた。
ピアノを弾く手は重く、精彩を欠いた音しか流れてこない。どこが金色の粒のよう、だ。
自嘲の笑みしかもう浮かばない。
ひかりのなか、君が笑う・8~Just Be Friends~
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