まだ陸がなく、世界が空と水だけで別たれていた頃、水には、男(おのこ)しか、棲まず、空には、乙女しか、棲みませんでした。
そんな遠い昔、双子の月は、共に、水の中に沈んでいました。
しかし、ある時、ひどい津波で、月の一つが、空に、投げ出されてしまいました。
水の中の月は、一生懸命、片割れの月を呼びましたが、空に投げ出された月は、風に縛られ、水の中に戻ることができませんでした。
世界が創造された頃より、共にあった、双子の月は、お互いを求めて、呼び合い続けました。
そして、月満十五夜、満ちに満ちた光が、求め合った結果、水と空の境で、光は、膨れ上がり、三つめの月ができてしまったのでした。
しかし、三つめの月は、瞬く間に、割れて、一つは、水の中に零れ、一つは、空の上へ、放たれました。
水の中に、零れ落ちた、その半分に別たれた月の中には、光り輝く、小さな子どもがいました。
水の男たちは、その子どもを、月の神子と呼び、大切に育てました。
金色の光に、くすぐられて、目を開くと、いつも、そこにいる。
水の中、蓮の花の中。
そして、金色に輝く、その場所。
ふいに、そこ全体を震わせるような、美しい鈴の音が響き渡った。
少年は、導かれるように、その鈴の音が、一番、響いた空の下に、歩み寄る。
少年が歩むごとに、鈴は、リン、リン、リンと、どんどん、強くなってゆく。
やがて、風が、見えるほどに、大きく、孤を描き、そして、その風を、飾るように、鈴生りに、鈴が、なってゆく。
一際、高く、鈴が鳴り響いた、刹那。
「蓮(レン)」
その鈴よりも、高く、愛らしい声が、少年を、蓮を、呼んだ。
蓮は、その声で、呼ばれるたびに、己の名が、これほど、美しい名であったのかと、しみじみと、思う。
視界がぼやけそうになるくらいに、思うのだけど、涙は零さないことにしている。
泣かないかわりに、蓮は、風の中に現れた、天女のような少女に、その、光り輝かんばかりの笑みに、両の手を広げた。
「鈴(リン)」
きらきらと光るような、空を行き渡る風のような、少女の名を、呼びかけると、空の中の少女、鈴は、風と共に、鈴生りの鈴を響かせて、蓮の腕(かいな)に、舞い降りてきた。
己の腕に、舞い降りてきたはずの鈴は、羽根のように、軽い。蓮に負担をかけないようにしてくれているのだろうが、風のような少女だから、本当に、羽根のように、軽いのかもしれない。
この風一吹きで、吹き飛ばされて、わからなくなってしまうような……
「蓮?」
知らず知らず、腕の力が、強くなったのか、それとも、聡い少女だから、蓮を纏うものの、微妙な変化を感じ取ったのか、鈴の、心配そうな声が、蓮の耳をくすぐる。
その愛らしい声すらも、それこそ、空耳なのではないかと、たまに、不安に思う。
「何?」
蓮は、鈴の顔を見ないまま、きらきらと輝く、金色の髪に、うずめるように、言葉を返した。
「……どうしたの?」
いたわるように、戯れるように、そよ風のような、鈴の手が、蓮の、やっぱり、きらきらと輝く、金色の髪を撫でる。
「どうもしていないよ」
ゆっくりと、顔を離して、蓮は、鈴に微笑んだ。すぐ近くの、玉でも、割ったように、よく似た、美しいつくりの少女は、しばらく、蓮を、見つめていたが、うつったかのように、微笑んだ。
「私ね、今日、新しい舞を覚えたの」
桜色の唇が、歌うように、言って、蓮の腕から、ふわりと、風のように、離れて、クルリと、回った。
ただ、回る、それだけの行為なのに、風が、嬉しそうに、鈴を迎え、鈴が、嬉しくて、仕方ないように、鳴り響く。
「すっごく、素敵な舞なの!! 蓮にも、見せてあげるね!!」
鈴は、はじけるような声で、そう言って、溢れそうな心のまま、両の手を振った。
「うん。見たい。鈴の舞は、すごく、綺麗だから」
舞を見ることも、することも、慣れてはいる。でも、鈴ほど、自然で、美しい、調和のとれた、舞は、見たことがない。鈴は、舞いながら、生まれてきたような、天性の舞姫なのだ。
でも、それは、そうなのだ。彼女は、風に愛されし、天つ乙女なのだから。
「ありがとう♪ 本当は、冠とか、舞衣(まいぎぬ)とかあると、もっと、綺麗なんだけどね」
顔をほころばせて、それから、少し、残念そうに、鈴は、彼女の纏う、たまに、金色に輝く、白い衣を見た。
それは、蓮の纏うものと同じで、何の飾りもなく、舞衣と比べれば、見劣りするのは、当然だ。
白と金と、空色だけで、彩られた、鈴を眺めて、蓮は、微笑んだ。
「それなら、良い手があるよ」
そう言って、蓮は、不思議そうに、首をかしげる鈴のもとに歩み寄った。
そして、鈴の金色の髪に、口付けるように、そっと、歌い出した。
僕のねにひかれて 咲く花たちよ
鈴の髪飾る冠となって 咲き誇れ
蓮の歌声が響くと、鈴の、金色の髪に、薄桃色の花びらが、あとから、あとから、咲き出して、瞬く間に、蓮の花冠が、鈴の髪を彩った。
鈴の、きらきらした金色の髪に、咲き立ての、瑞々しい、薄桃色の花冠は、あつらえたように、良く似合っていて、蓮は、満足そうに、頷いた。
「ありがとう」
嬉しそうに、少し、恥ずかしそうに、桃色に頬を染めて、鈴は、そう言って、微笑った。
それから、熱に浮かされたようにも、振り切るようにも見える、足取りで、三歩、飛ぶように、拍子を踏んだ。白い衣から、伸ばされた手が、空を廻れば、鈴が、鳴り響き、風が、白く輝く、羽衣となって、鈴を包んだ。
両の手を、顔の前に、重ねて、礼をとる。そして、最初の音と共に、その手を返すと、その手には、金色の扇が握られていた。
扇が、シャラリと、空を舞い、鈴が、リン、リン、リンと、鈴の歌を彩る。
鈴が舞う。
羽衣を、ふわりと、遊ばせて、鈴の手が、揺らめく。
鈴が舞う。
白い衣を、金色に、煌かせて、鈴の足が、拍子を踏む。
鈴が舞う。
同じ場所を踏んでいた足が、自然と、離れ、鈴は、空へと、舞い上がった。
蓮は、空の中で、一層、生き生きと、舞う鈴を、眩しそうに、見上げた。
このまま、羽衣をひらめかせて、そのまま、天高くまで、舞い上がっていってしまいそうだ。
でも、ふと、金色に輝く髪の中で、楽しげに、咲き誇っている、薄桃色の花が、目に止まって、蓮の顔も、自然とほころんだ。
あれは、蓮の花だ。蓮が咲かせた、水の花だ。その水の花が、今、鈴と、風と、一心になって、舞っているのだ。
扇を、シャラリと、返して、蓮を見た、鈴が、笑みを深くする。
そして、舞いながら、ふわりと、羽根のように、鈴は、蓮のもとに、降り立った。
「蓮も、一緒に、舞おうよ」
「え?」
はずんだ声と共に、手を差し出されて、蓮は、面食らって、鈴を見つめた。
「これ、本当は、合舞(あいまい)なの。ここには、天鳩(ミク)お姉ちゃんがいないし、やっぱり、合舞を、ひとりで、舞うのは、淋しいよ」
先ほどまでの、神々しいような舞姫の姿を、翻して、鈴が上目遣いに、蓮を見る。蓮は、舞を舞うのは、それほど、好きでも、得意でもない。歌っていられたら、それだけで、良いと思う。
だけど、鈴が合舞をするのなら、当然、相手は、己であるべきだと思う。何しろ、蓮と鈴は、対のように、同一で、対のように、対極なのだから。
「うん。一緒に、舞おう」
そう言って、鈴の手をとれば、鈴の顔が、パアッと輝いて、リンと、一際高く鈴の音が響いた。
蓮は、片方の手を、そっと、胸に当てた。今、この奥でも、リンと、鈴が鳴った。そして、蓮いっぱいに、浸透してゆく。
心地の良い感覚に、浸っていると、鈴が、「じゃあ、まず、最初はね」と、はずんだ声で、最初の振りを取り始めた。
蓮は、その感覚を感じながら、鈴の動作を真似た。自然と、身体が動く。まるで、あらかじめ、覚えた舞を舞うように……糸でも、ひかれているかのように……
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