最後の楽譜を暗譜して、蓮は満足そうに、顔を上げた。そして、そのまま、凍り付いた。
 そこには、何もなかった。暗くて、何も見えないのではなく、本当に、切り取られたように、何もなかった。
 そして、その理由は、蓮が一番、よく知っていた。
 ずっと前に、鈴月に乗っているときに、暗譜しながら、歌ってしまって、そこにあった美しい珊瑚礁を、大きな岩ごと、粉々に、砕いてしまったのだ。
 あれは恐ろしかった。自分の歌が、これほどの効果をもたらすとは思っていなかったから。そして、それは、蓮を神の子と、崇め奉る、水の男(おのこ)たちも、そうだったのだ。あのときの彼らの、能面のような、血の気の引いた顔は、今も、蓮の胸に、焼き付いている。
「鈴月」
 胸を押さえながら、蓮がうめくと、鈴月は、水を切って、光のように、かけ出した。 身に馴染んだ水圧を感じながら、蓮は、目をぎゅっと、閉じた。洗ってほしかった。あの鈴の音が、聴きたかった。
 でも、痛いほど、願っているのに、あの静謐(せいひつ)も、鈴の音も、やってくることはなく、緩やかに、鈴月は、止まった。
 目に飛び込んできた満月に、蓮は、引き寄せられるように、鈴月から、滑り降り、よろよろと、結界の上へと、歩み寄った。
 そのまま、膝を付き、両手をつく。月の光を、月の気配を、こんなにも、強く、濃く、感じるのに、蓮の手は、結界にとどまり、月に触れることはできない。
 蓮の喉が震えた。
「あ…あ……あぁあぁああああああああああ!!」
 そして、蓮は、叫んだ。いや、それは、歌だった。蓮の高い声は、海を震わせて、響き渡った。
 蓮は、音を発し続けた。何の言葉も乗らなかった。
 ただ、胸のうちに、満月よりも、眩しく光る鈴に、逢いたくて、触れたくて、声だけでも、届きたくて、蓮は歌い続けた。
 逢いたい。逢いたい。
 今すぐ、鈴に逢いたい。
 ぎゅっと閉じた、蓮の目から、涙が伝って、結界を濡らした。
 それは、まるで、月に零れたようで、結界が、光彩のように、金色に輝いた。
 その光に包まれたからか、蓮の声は、少し、柔らかくなった。
 そして、そのまま、消えいって、蓮は、仰向けに、倒れこんだ。
 蓮の身体を、蓮の花が、優しく受け止める。
 温かくて、心地よくて、蓮は目を閉じた。まだ、自分の声が、響いているようだった。
 でも、その声に、鈴の声が合わさっているような気がして、蓮は頬を緩ませた。
 そして、そのまま、そのしあわせなまどろみをたゆたった。

「海底花畑化計画?」
 ふと、落ちてきた声に、蓮は、目を開けた。そこには、いつものように、青い守り帯を棚引かせた海渡が立っていた。
 首に手を触れてみたが、そこに、守り帯の感触はない。ここにくるまで、随分飛ばしたから、落としたのかもしれない。
「花畑の中に、落ちていたよ。もっとも、かなりの距離、ずーっと、一面に、蓮の花畑だよ」
 身体を起こして、見渡す限り、一面の蓮の花畑を見て、蓮は、少し、ぼんやりした。
 さすがの蓮も、ここまで、一面の蓮の花畑は、初めてだった。
「暗い海底が、薄紅色に染まっちゃって、随分、みんな、騒いでいるよ。さすが、神子様だって」
「歌わずにはいられなかっただけだ」
「うん。随分、哀しい声だったね。心配していたよ。二人も」
 髪を手櫛で、直しながら、蓮は、小さく笑った。
「心配させてばかりで、神子様失格かな」
「そんなことないよ。蓮君は、頑張りすぎなくらいだよ。そんなに、頑張っていて、辛くない?」
 辛くないというと、嘘になる。でも、頑張れるのは嬉しかった。楽な方なくらいだった。
「……俺は、この国を、美しいと思うから」
 波に揺れる蓮の花を見つめながら、蓮はいった。自らの咲かせる、蓮の花。色取り取りの魚たち。着飾った男たちの行き交う宮。どれもが、美しく、調和に満ちている。
「蓮君は、この水の国が好き?」
 酷く、まっすぐな海渡の問いかけに、蓮は俯いた。
 水の国は美しい。親しい者や、日常のある、蓮の守るべき国。
 でも……
 鈴に逢いたい。
 鈴に、この国を見せて、ともに、歩きたい。
 鈴なら、きっと、この国に、すぐ、打ち解けるだろう。
 海渡とも、澪音とも、海九央とも、すぐに、仲良くなるだろう。
 鈴が喜んでくれたら、鈴が隣で、笑ってくれたら、この国を、本当に、好きになれる。
この国が、本当に、蓮の国になるのだ。
「ねぇ。蓮君は、夢ってある?」
 答えない蓮に、海渡は、それについては、何も言わずに、そう問いかけた。
夢……夢ならある。夢から覚めても、鈴と一緒にいること。
 夢とともに、鈴が消えてしまうなんて、鈴のいない日常が、現実なんて……
 そんなの……
 それこそ、悪夢のようだ。
 鈴。
 鈴。
 どうして、ここに、鈴がいないのだろう?


 蓮は、今にも、溶け落ちていきそうな、老人の前に、座っていた。
 この老人こそが、古来より、水の国をまとめてきた、長老だ。
 最も、蓮は、この長老が苦手だった。海九央のように、さぼりたいところだが、蓮が神子である限り、この長老から、逃げ続けるわけにもいかない。だから、蓮は、仕方なく、そこに座していた。
 しかし、長老は、なかなか、話し出さず、「話がないのでしたら」と言って、帰ろうかと思ったときだった。長老は、重々しく、口を開いた。
「とうとう、次の満月の夜に、神子の時満ちて、十五歳とおなりになる。その夜、偽りの神子が崩じて、この水の国の神子である、蓮様が、まったき、月の神とおなりになるのじゃ」
 いつも以上に、荘厳な響きに、大層な言葉に、蓮は、衝撃を受ける以上に、心臓に、杭でも刺されたような痛みを覚えた。
「偽りの……神子?」
 喉が潰れるような、嫌な感覚を堪えて、蓮は、懸命に、そう尋ねた。さっきから、頭の中に、リン、リン、リンと、鈴の音が響いている。あの美しい、鈴の響きが、痛いほどに感じられる。こんなことは、初めてだ。あってはならないことだ。
「蓮様も、勉強なされているじゃろう。この上にある、空の国にも、神子がおる。空の国に奪われた、月の力じゃ。しかし、蓮様こそが、真の月の神子。空の国の力を取り戻し、まったき、光をうたわれるお方じゃ」
「俺は、今のままで良い」
 蓮は、声が上ずりそうになるのを抑えて、勤めて、平静に、そう言った。
「何を申される。そのお力では、満ちる月の光に耐え切れず、蓮様とて、滅びてしまわれる。空の国の神子から、力を取り戻し、月の神とおなりになって、わしのかわりに、水の国を守ってくだされ」
 満ちる月の光に耐え切れず、俺が、滅びる? それは……鈴も? 滅びる? このままでは、共倒れ……?
「御安心くだされ。蓮様は、どんなものよりも、優れた歌舞の才覚を、お持ちであられる。さらには、あの水龍をも、従われておられる。偽りの神子など、蓮様の敵では御座らぬ」
 胸がキリキリと痛む。蓮の蒼白の顔を、誤解したのか、長老は、力強い声で、そう言った。その声が、その言葉が、さらに、蓮を刺し貫いた。
 生きた心地がしなかった。いや、いっそ、今すぐ、死んでしまっても良かった。それは、死刑宣告に違いないのだから。

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双子の月鏡 ~蓮の夢~ 七

閲覧数:1,339

投稿日:2008/09/07 17:08:30

文字数:2,969文字

カテゴリ:その他

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