アヤの与えてくれた情報で、文献の解読は急速に進んで行った。獣はアヤから教わった言葉を記録し、この国の言葉にして纏めていく。
 物事は滞りなく進んで行き、アヤの存在はこの塔の中で当たり前のものとして馴染んだ。
 アヤはもう窓の向こうで獣が鍵を開けるのを待たなくて良かった。獣はもう鍵を閉めなかったから。
 ふと、あるとき開けっぱなしの窓の鍵に気がついた獣は、それが示す事に驚き、戸惑いを覚えた。
 それはアヤがここにやってくる事を許容していると言う事。アヤがここから入ってくるのが当たり前になっていると言う事。
 ただの少年がこの塔の中に存在している事が、当たり前になっていた。勝手に住みついて、その事を忌々しく思っていた筈なのに。そもそもたった一人きりで暮らしていた筈なのに。いつの間にか、アヤがここにやって来る事が当たり前になってしまった。
 鍵を閉める必要はなかった。だって必ず毎晩アヤが戻ってくるから。アヤしかこの塔を訪れる者などいないのだから。
 アヤの存在が、ここに在る事が当たり前となっていた事に、獣は戸惑いを覚えた。
 可笑しくないか、これは。だって他者など必要としていなかった。独りでいる事を選んだはずだった。
 そもそも人とは醜く愚かな生き物で、自分はそんな人を厭い捨てた筈だった。人と言う生き物に嫌気がさして、自分は獣となったはずだった。
 卑しい、見下すべきものを、なぜここに置く?

 怖くなった。アヤの存在は大きすぎてこの塔の中は小さすぎて、もう、無視するなんて無理だった。

 そして、獣はアヤとの約束を破り、文献の内容の全てを王宮に伝えた。

 日が暮れて、いつものように街から森を抜けてこの塔にやってきたアヤに、例の文献の全てを解読し終えその内容をすべて王宮に伝えた。と獣は言った。獣の言葉にアヤは信じられないと言うように目を見開き、そして強く、獣を睨みつけた。
「全部って、全部か。」
「ああ。文献に書かれていたもの、全部だ。前時代が遺した遺産が隠されている場所も、遺産は莫大な財産である事も。その遺産の中には巨大な力を持つ兵器の設計書が入っている事も。全部だ。」
淡々と、アヤの問いに答える獣に、なんで。とアヤはかみつくように叫んだ。
 獣よりも、荒々しく獣性を帯びたアヤの眼差しが、獣を射抜く。その強い眼差しを獣は冷たい表情で受け止めた。
「約束をしたはずだ。とうかこうかんだと、言った筈だ。なんで、約束を破る。なんで。」
「私は、私の仕事をしただけだ。私は謎を解き知識を増やすのが仕事だから。」
冷淡にそう言葉を述べる獣に、アヤは嘘だ。と噛みついた。
「嘘だ。あんたは仕事だなんて思っていない。ただ知りたかっただけだろ。」
いくら噛みついても叫んでも、何の反応もなく冷たい表情のままの獣に、アヤは悔しげに口元をゆがめた。
「あれは、本当に巨大な力なんだ。人が持っていて良いものじゃない。掘り出したらいけないんだ。」
相手に伝わらない苛立ち。悔しげに唇を噛んでいるアヤに、獣は嘲るように冷たい笑みを浮かべた。
「知識を解くのは私の仕事だが、それをどう使うかは、受け取った側の問題だ。そんなに危険なものだと言うのならば、お前が何とかすればいい。」
獣は冷笑を浮かべたまま、おまえの事も王宮に伝えた。と追い打ちをかけるように言葉をつづけた。
「おまえが、滅ぼした民の生き残りだとその事も伝えた。今後の、遺産の発掘作業にかの民の知恵は必要だからな。明日、王宮から迎えが来る。」
冷酷な獣の言葉に、アヤの瞳に再び力が宿った。悲しみの青から怒りの赤に染まった眼差しが、獣を睨みつける。
「どういうことだ。」
もう感情しか残らない低い唸り声をあげるアヤに、獣は理性の宿った低い声で、そういうことだ。と応える。
「そういう事って。なんだよそれ。」
「そもそもお前は勝手にこの塔に居ついてきた、私にとっては邪魔な存在だ。文献の解読には役立ったが、それだけだ。」
怒声を凍りつかせる冷たく昏い獣の眼差しが、アヤを真っ直ぐに射抜いた。
 そうだ。相手を見下していれば真っ直ぐに見ることだってできる。いくらアヤが明るい光を宿したとしても、こちらがそれ以上の闇を纏っていればいいだけの事。
 冷たい感情を宿したまま、獣は言った。
「形はどうあれ、故郷に帰れるんだ。良かったじゃないか。」
「故郷なんか。」
獣の冷たい声を、黒い炎が焼いた。
「故郷なんか焼けて無くなった。みんな、全部、誰も。」
胸が潰れるような、血を吐くような。熱で枯れた声が、獣の耳に響いた。
 それは闇をも焼き尽くす炎。アヤの眼差しの奥で蠢いているのは太陽よりも強く凶暴な炎だった。獣よりも、よっぽど獣性を含んだ眼差しは強く、けれど儚い。巨大な熱を吐きだして、し次の瞬間にはしかし、その大きな力に耐えきれずアヤの眼差しは小さな子供のようにか細く、ただ乞うことしかできない弱いひかりになってしまった。
「おれは、ここにいたい。」
泣き声よりも酷い声でアヤはそう言った。小さな声が空っぽの塔の中に響く。
 ざわりと、獣の背が粟立った。アヤの小さな懇願は獣の身の内の何かを揺り動かしていた。それは知恵や理性と対極のものだった。人であることを捨ててまで、獣になってまで、手放したかったものだった。
 こんなもの、理解したくない、触れたくない、知りたくない、いらない。
「それは、おまえが望んでいるだけで、私はそれを望んでいない。」
拒否の言葉を獣はアヤの目の前に静かに置いた。
 獣の言葉を直視したくないように、アヤは俯いた。その小さな頭や頼りなげな肩のあたりを眺めながら、アヤから視線を外されたのは初めてだな。と獣は思った。
 自分でそう仕向けたくせに。とんでもない間違いをしたような気分になった。
「本当に。あんたは、本当に俺がここにいる事を望んでいない?」
低く呻くように、俯いたアヤが未練を引きずるように問い掛けてくる。そうだ。と最後通牒を突きつけるべきだと、獣は思った。だけど、言葉は出ず、ため息だけがその口から零れ落ちただけだった。
 アヤは俯いたまま、それ以上は何も言ってこなかった。
「自分たちを滅ぼした国に仕えるのが嫌ならば、このまま出ていけばいい。それは好きにしろ。」
しばらくの無言の後、それだけ言うと獣は俯いたまま立ち尽くすアヤを残して、部屋から出ていった。

 ざわざわとささくれ立った気持ちを抱えたまま、獣は近くの書庫に入り、手当たり次第に本を引き出した。アヤが自分の書斎にいるから、しばらく戻る事が出来ない。戻ったところで掛ける言葉もないだろうし、アヤはこれ以上何も言われたくないだろう。既に部屋からアヤがいなくなっていたら、それはそれできっと何かが耐えられなくなる。
 今晩は一晩中ここで本を読んでいよう。そう思って獣は適当に本をいくつか本棚から引き出して抱え、書庫の端にある灯火に明かりをつけてその傍に腰をおろした。ぺらぺらと無造作にページをめくる。
 手に取った本は、時間と人との関連性についての論文だった。大昔に書かれた、だけどあまりに進歩的な考えすぎて未だに人には理解できない論理と思考。とても興味深い内容なのに、その内容が獣の頭の中に入ってこなかった。そういう気分ではないのだろう、と獣はぱたんと本を閉じて別の本を紐解いた。今度は完全に空想の作り話で、本の中と外とが繋がっているという二重世界を描いた幻想小説。これもまた世に出回っている数多くの物語の原点の一つともいえる面白い話なのに、視線は文字の上っ面だけを撫でるばかりで、その意味を読み取ろうとしてくれない。
 大きなため息を落として獣は本を閉じ、表紙をそっと撫でた。
 並び積み重なる英知の塔。ここは学ぶものにとっては楽園とも呼べる場所。獣になって、この膨大な書物の海に独り沈んで、過去から連なる知識の波に身をゆだねる事が望みだったはず。そしてその静かで平穏だった世界に突如現れた闖入者も、明日、もしかしたら今夜にでもこの塔から出て行ってくれる。
 全て、自分の望み通りの筈だった。
 なのに。間違いをしてしまった気持ちは、どうやっても消す事が出来なかった。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

愚者の塔・8~The Beast.~

閲覧数:282

投稿日:2010/11/25 20:42:46

文字数:3,368文字

カテゴリ:小説

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