放課後は図書館に寄り、それから音楽室へ行ってピアノを借りる。それが高校時代のシンの日常だった。もちろん、友人たちと連れ立って遊ぶことも無かったわけではないが、一人でいる時間もシンは大切にしていた。まだルカに出会う前は彼女もいなかったし、自由気ままに過ごすことをシンは好んでいた。
まだ未来に夢見ることができて、好きなことを好きだと言えた頃。本を読むこともピアノを弾くことも単純に好きで、それ以上でもそれ以下でもなかった。近い未来、将来を考えなくてはならない岐路がやって来ることも気が付いていたけれど、それでも今は今で楽しみたかった。
その日もシンは図書室で本を借りて、音楽室でピアノと対峙した。蓋を開けて、白と黒が並ぶ鍵盤で音を奏でる。最初は簡単に練習曲で指慣らしから。それから最近、気に入っている曲を弾く。
ピアノは幼い頃から習っていて、シンは周囲から音大に行くことを薦められていた。だけどシンは、自分には技術はあっても情熱といったものが音楽に向かっていないことに気が付いてしまっていた。シンには幼い頃から一緒にピアノを習っていた友人がいるが、彼は音楽を楽しみ、なおかつ音楽を欲していた。彼と話をするたびにシンは思う。
ピアノを弾くことは楽しい。だけど、ピアノを弾くことに自分は必要性を感じられない。
時折、ピアノと対峙する瞬間、白と黒の鍵盤に自分のこのぐちゃぐちゃした後ろ向きな思いが映ってしまうのではないか。他の人には酷く耳障りな音に聞こえるのではないか。と不安になる。そんな事を思いながらも、手は伸びて指は踊るように音を奏でる。
結局音を紡ぐことが楽しくて仕方が無いのだ。
最後のキィを鳴らしてシンが腕を下ろすと、不意に入り口のほうから小さく拍手が聞こえてきた。
そこには見慣れない女子が一人で立っていた。横から西日を浴びて、その女子は大きな瞳をきらきらと輝かせ、頬を赤く染めて手をたたいていた。
「楽しい音ね。まるで金色の粒が降っているようだったわ。」
そう興奮した様子で声をかけてくる女子にシンは少し面食いながらも、どうも。と呟くように返事をした。
「あの、そんなところで、いつから聞いてたの?」
そう尋ねると、女子は、今度は興奮ではなく羞恥からだろう、頬を染めてけっこう前から。と答えた。
「ごめんなさい。まるで盗み聞きよね、これは。声をかけようと思ったのだけど、でも、途中で止めるのも躊躇われてしまって、、。」
そう言う女子の声が段々と小さくなってゆく。思わず吹き出してしまったシンに、女子は、今度は憤慨した様子で、頬を赤らめてシンを睨み付けてきた。
「初対面で笑うなんて、失礼じゃない?」
ころころと、感情が移り変わる女子の様子にシンは更に吹き出しそうになるのをこらえて、ごめん。と謝罪した。
「、、いいわ。私も盗み聞きなんて失礼な事をしたのだもの。」
そう言って、女子はもう少し聞いていても良い?と尋ねてきた。
「良いけど。どうせならば座ったら?」
そうシンが返事をすると、女子はありがとう、と嬉しそうに笑った。
音楽室の端の席に腰掛けて女子は頬杖をつきながら期待するような眼差しでこちらを見てくる。その視線を受けて、シンはなにやら胸の中で渦巻く物を感じながらも努めて冷静さを保ちつつ、手持ちの楽譜をめくりつつ問いかけた。
「ピアノ、君は弾かないの?」
ピアノを弾きたいから音楽室に来たのだろう。そう思ったが女子は首を横に振った。
「ピアノ、弾けないの。歌うのは好きなのだけど。」
「ふうん。」
そう呟き、シンはふと悪戯を思いついた子供のようににやりと笑みを浮かべた。
「じゃあ折角だから歌ってみる?」
「ええっ。無理よ。」
「楽譜ならここにあるよ。」
そうにやりと笑ったままシンは手にしていた楽譜の一枚を差し出した。映画音楽にも使われた女性ボーカルのその曲は有名だから、きっとこの女子も知っているだろう。
「でも、、。」
「歌うの、好きなんだろ?」
困った様子の女子にシンがそう追い討ちをかけるように言うと、女子は考え込むように微かに顔を伏せた。はらりと肩の上で切りそろえられた女子の髪の毛が揺れる。
あれ、この子を見たことがある。ふとシンはそう思い、まじまじとその切り揃えられた髪の毛から覗く細い首筋と肩を見つめた。ああそうだ昼休みに渡り廊下を歩いていた女子ではないか。と、思い至り。あの、とシンが女子に声をかけようとしたほんの少し前。女子はつ、と顔を上げてにっこりと微笑んで頷いた。
「歌うわ。楽譜を貸して頂戴。」
金色の西日のなか、微笑む彼女はあどけなくて、それでいて、とても凛としていて、綺麗だった。
巡音ルカの声を聞いたのはこれが最初だった。歌の勉強をしたことは特に無いと言う彼女の言葉を嘘なんじゃないかと思ってしまうほど、彼女の声は張りがあって伸びやかで、意外にも甘くて柔らかく、ほんの少しかすれていて。彼女の声は耳に心地よかった。自分のピアノの音よりも、彼女の声こそ金色の粒子が降り注いでくるような美しさがあると、シンは思った。
西日の差し込む音楽室で出会ったルカの微笑とその歌声は、今でも脳裏に焼きついて、離れない。
ひかりのなか、君が笑う・2~Just Be Friends~
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