35.太陽の陰で
まずリンがしたことは、全軍にネルの存在を知らせることだった。
「あなたが、緑の国からの使者だということは皆に知らせておいたほうが良いわ」
ネルがリンの居場所を突き止める前に、他の黄の兵士に捕まったことで、「黄の軍に緑の者が紛れ込んでいる」という噂が広まってしまっていた。
「もしかしたら隣に居る者は敵かもしれないと思いながら戦うことはできないでしょう? それならいっそ、女王であり全軍の長であるわたくしが、入り込んでいる人間を把握していると思わせておいた方がいいわ。疑心暗鬼は士気に関わるもの」
ネルはこの齢十四歳の王女の手腕に改めて感心した。
「これは、ミク様が警戒するのも当然だわ」
大きな黄の国を、強いリーダーが的確にまとめたらどうなるか。小さな緑の国の王がいくら賢くとも、その力はおのずと限られる。
リンは、ネルを伴って馬車を降りた。まぶしい光が視界を突き刺す。
兵士たちも夜の進軍に向けて、各々に体力を温存している。
そこへ、リンは堂々と出て行った。
「みな、聞いてちょうだい」
とたんに、すべての兵士が立ち上がり、リンへと視線を注ぐ。
「今、緑の国のミク女王から、使者がやってまいりました」
おおっ、とあたりがどよめく。
「わたくしに、緑の女王と二人だけの会合をもとめていらっしゃいます」
兵士たちがざわめきだした。
「……わたくしは、緑の女王のお誘いに応じようと思います」
「それは危険ではないのか! 」
すぐさま端的に声を上げたのは、兵士のなかでも装備の整っている、大柄な男だった。茶色の髪に、彫りのやや深い顔立ち、日に焼けた肌をしている。
「ユドル地方部隊のセベク隊長。もちろん、その懸念は十分にあります。ですから」
リンの目がぐるっと一面に集まる兵士たちを見渡した。
「護衛をひとり、使者の名目で連れて行こうと思います。もちろんミク様とお話するときはわたくしとミクさま二人きりですが、会場の許されるかぎりのすぐ外まで、護衛の者に行ってもらいます。
……レン。あなたに、護衛をお願いできるかしら」
後ろに控えていたレンが「仰せのままに」とうなずいた。
「リン様! いくらなんでもレンどの一人では心もとないでしょう! 」
セベクが兵士たちの不安を代弁した。
その言葉に、リンは、本当にあでやかな笑顔を見せた。
「心配ありません。レンは、わたくしの側仕えとして、わたくしを護衛する者として、剣技や体術にもすぐれています。それよりもまず」
言葉を切ったリンが、ぐるりと兵士たちを見回し、真剣な表情で声を張った。
「あなたがたは、わたくしが守るべき黄の民です。
魔物が住む王宮の会議室で命を賭けて戦うのは、わたくしや、元王族のレンの仕事。
……そして、わたくしの民のあなたがたは、来たるべきあなた方の戦場で戦っていただきたいのです! どうか、わたくしを信じて! 」
ネルの背筋が震えた。
よく通るリンの声が、その場の誰もの心を、太陽の光のごとく射抜いて突き通した。
「……もし万が一、わたくしなにかあったら、レンに命を賭して合図を上げてもらいます」
だれもが唇を噛みしめ、若い女王の言葉に聞き入っている。
「緑の王宮から赤の花火が上がったら、和解成立です。その時は、緑の国の外で、わたくしの帰りを待ちなさい。しかし黄色の花火が上がったら、それは、わたくしに危機が迫った証拠。その時は、全軍を上げて緑の国を滅ぼしなさい!
しかし、ミク様は冷静でおやさしい方。そのようなことにはならないでしょうが……」
リンが、ネルをにこりと見やった。
ネルはただ頷くことしかできない。
「……では、これより、わたくしからの司令を与えます。
会合が行われる明日夜には、緑の国のすぐ外に、全軍配置すること!
朗報にも悲報にも、すぐさま反応してこそ、黄の国は守られる!
そして、黄の国を守り救うのは……あなたたち、黄の民です! 」
わっと気勢が上がった。
「女王様! 」
「リン女王様! 」
大きく上がる歓声、そしてあわただしく始まる出発準備の中、リンは演説の場に背を向けた。
「ネルさま。おまたせしました」
リンが、ネルに向かってにこやかに微笑んだ。
「ミク様のこと、まるで疑うような発言をしてしまって、済まなく思います」
ネルは黙ってリンを見つめた。
「ですが、どうか、こちらの立場もご理解いただきたいと思います。ネルさま」
ネルの背を、冷や汗が伝い落ちた。
「それは……牽制ですか? ここでの私の立場を理解しろということですか」
「まさか。わたくしは、ネルさまに感謝しておりますのよ? ミク様からのご提案を、こんなに早く届けていただけて。……あやうく取り返しのつかないことになるところでしたわ」
リンはまるで、親しい友達に遊びに誘われたように、無邪気な笑顔を向ける。
リンの言うところの、取り返しのつかないこととは何だろう。そう考え、ネルはじっと黙っていた。
「ではネルさま。わたくしとレンは、支度をしてまいります。少々お待ちいただけますか? 」
そう言うと、リンは先ほど質問を発したセベクという男を呼んだ。
「セベク隊長の天幕でお待ちください。彼は、黄の国のもっとも北側のユドルという土地の出身です。隊の中では最も旅慣れた部隊ですので、一番機能的で居心地のよい天幕だと評判なのです」
セベクがネルに丁寧に礼をとった。必要以上は話さない男のようだが、その礼は緑の国のなじみの型だ。上手に気をまわす男だなとネルは思った。
「では、ネルさま、失礼します。きっと半時もかかりませんわ」
そしてネルはセベクに促され、彼の部隊の天幕へと向かい、リンはレンを連れて彼女の戦馬車へと戻ってゆく。
まわりでは武器や食糧が、移動車に着々とまとめられていく。
* *
「レン」
人があわただしく行き来する馬車に、リンはすぐには戻らなかった。
レンを近くに岩陰にひっぱりこんだ。
「な、なに! リン! 僕たちも急がなきゃ」
「レン」
リンが、じっとレンを見た。
「お願いがあるの」
じっと見つめられて、レンもリンを見つめ返す。先に口を開いたのは、レンの方だった。
「……わかっている。ミクには、僕が会うよ。僕が、女王の姿で」
その瞬間、リンの表情が泣きそうに歪んだ。
そして、リンはレンの胸に思い切り飛び込んだ。
「……ごめん。ごめんね、レン……! 」
「いいんだ。君は女王。僕は召使い。今、失ってはいけないのは、リンだ」
レンの胸にしがみつき、リンの肩が震えている。涙の感触はない。必死にこらえているのだとレンには解った。
「リン、」
「あたし、約束したの。おとうさまとおかあさまに。
……ふたりを見送ったそのときに、これが、わたくしの流す最後の涙です、って」
レンが鋭く息を吸う音が響き、リンの髪に、レンが顔をうずめる。
「リン……僕の幸せは、君の笑顔だ」
「レン。わたくしの幸せは、国とともにある」
互いを強く引き寄せたふたりは、一瞬強く互いを抱きしめ、そしてゆっくりと体を離した。
「レン。おそらくミクさまは、ここで仕掛けてくるわ。……どうか、無事で」
「……うん。必ず、僕は戻るよ」
リンが自らの鎧の内側から、ひとふりの短剣を取り出して、レンに渡した。
ドレスの内側に隠しても目立たない、刃も柄も薄い、飾り気のない短剣だ。
受け取ったレンは静かにうなずいた。リンを映したその瞳に、迷いは無かった。
つづく!
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