「約束の、しるしに交わすものとははなにも、形あるものに限ったことではないのですよ」
ご存じでしたか? と、やわらかな言葉と穏やかな微笑を前置きにして、その若い吟遊詩人の物語るのは、今は昔の物語。
かつて、歌が戦の手段として使われていた時代があった。
戦のたびごと、事が起こるごと、歌われる祝福の呪歌(バルドル)、呪いの呪歌(ギース)。
流れる旋律(メロディ)、震える顫音(トリル)、響き渡る言の葉は、戦士たちを、騎士を、民草の心を昂揚させる。不退転の決意を呼び起こす。
王国が、至高の宝冠のように各々の頭上に頂く吟遊詩人こそは、麗しの歌姫。
時に国の命運をも左右させる力を、その黄金の声と銀の舌に宿した彼女たちは、何にもまして尊ばれ、大切にされていた。
そんな時代。歌が、道具として使われてあった時代。
中でもとりわけ名を馳せたのは、東の王国の頂く「蒼の歌姫」と、北の王国が頂く「紅の歌姫」の二人。
例えるならそれは、優しく香る谷間の白百合と、誇らしく頭をあげた真紅の薔薇。
例えるならその歌声は、谷間を喜ばしげに下る春の清流のごと、あるいは厳寒の寒さを退ける、燃え上がる炎のごと。
そんな二人の歌姫だったけれど、共通していることがひとつだけ。
王国を守り、敵を砕くその歌を守るため。歌いつづけさせるために。
蒼の歌姫は、世間の風に当たることなく塔の中。
悪意を知らず、自分の歌がどう使われているかも知らされず、ただただ無邪気なままに、従順であれと育てられ。
紅の歌姫は、家族と自由から引き離されて塔の中。
家族の命を保つには、歌い続けろと―――王国が勝利をおさめてゆけばいずれ、自由とぬくもりを返してやろうとの、口約束を心の支えとし。
疑うことを知らぬ、無垢の強さ。追い詰められた者が引き出された、ぎりぎりの強さ。
蒼の旋律。紅の顫音。絡み合い、響きあう合唱は紫。
言祝(ことほ)ぎ歌は忍び寄る悪意を打ち消し、呪詛はまた、祝福のさやけき言霊を打ち払う。
相対する強さは拮抗し、戦況は膠着状態へと陥った。
そんな均衡を破ったのは、北の国が放った一人の刺客。
狙いは蒼の歌姫、ただ一人。彼女から声を奪えば、東の国は守りを失う。彼女ほどの技量の歌姫は、探せば見つかりはするだろう。けれど、彼女とそのやさしい心は、東の民草に愛されていた。誰も、彼女のかわりになれなどしない。
三つの平原と氷雪の山を一つ越え、刺客は首尾よく亡命者として東の国へ忍び込む。
青い髪をした長身のその男は、しかし、歌姫に対して曲刀を振るうことはしなかった。
鋭い細身の短剣を使うことも、杯に毒を忍ばせることもしなかった。
彼はただ、端正な顔を歌姫の前に出すだけでよかった。
無垢な心は、たやすく恋の網に搦め取られてしまうのだから。
そして刺客は折りを見て、白い貝殻のような歌姫の耳に、優しく甘く吹き込んだのだ。
自分が逃げてきた北の国が、戦争でどれほどの痛手を受けたのか。
歌姫の歌が、どれほどの威力を持っているものなのか、包み隠さず、ありのままに。
やさしい心を砕くには、ただ、それだけで充分だった。
ましてやそれは、愛しい恋人の唇がつむいだものだったのだもの。
わたしはなんにも知らなかった。
わたしはただ、歌いたいだけだった。それ以外のことなど考えもしなかった。
わたしの歌に苦しめられるひとがいるなんて知らなかった。
わたしは、人は皆、わたしの歌を喜んで聞いているものと思いこんでいた。
後世の人々は、きっとわたしを誹り、さげすむでしょう。
『真実を知ることもせず、人形のごとく歌いつづけた愚かな歌姫』、と。
ごめんなさい、ごめんなさい。わたしはもう、歌えない……!
やさしい心と自身の言葉を石として、みずからを追い詰めた蒼の歌姫は、まるで断崖に咲いた一輪の白百合のよう。
やさしい心は時として、持ち主を一番ひどく傷つける。
そして白百合は我とわが身を、砕ける波の間に沈めてしまった。
守りの歌を失った国もまた、軍馬の蹄と血臭と、死者と嘆きの声の中に沈んでいった。
―――今は昔の物語。
されど。
勝利の女神よ、至高の歌姫よと名誉と賞賛を捧げられ、あれほど渇望していた自由を手にした紅の歌姫は、いささかも喜ばず。
ただただ、呪詛と悲哀の言葉を、旋律にのせることさえせずに、喉いっぱいに叫んでいたのだった。
わたくしに残されていたのは、歌だけだったのに。
わたくしにできることは、人より勝る歌をつむぐことだけだったのに。
わたくしは、わたくしの力で自由を贖(あがな)いたかったのに。
わたくしは、わたくしに残されていたもので、堂々と渡りあいたかったのに。
後世の人々は、きっとわたくしを誹り、さげすむことでしょう。
『己が力量が未熟なゆえに、卑怯な手段で勝利を手にした愚かな歌姫』、と。
嗚呼、わたくしは、そんな烙印には耐えられない……!
自身の歌と言葉を石として、みずからを断崖へと追い詰めた歌姫は、まるで一輪の紅の薔薇のごと。
誇り高い矜持は、妥協を決して許さない。
そして薔薇は自身の意思で、波間へと跳んだ。
守りの歌を失った国もまた、歴史の流れの中に沈んでいった。
―――そんな。
今は昔の物語。
………………。
波間に白い泡と消えた蒼。
波間の青に飲み込まれた紅。
刺客の男はどこへ消えたのか、それは杳として伝わらない。
―――それももう、今は昔の物語。
けれど、吟遊詩人たち、彼女たちと同じく詩の女神(ミューズ)の息吹きと霊感を吹き込まれたものたちは、二人の歌姫を哀れんで、この物語を忘れるまいと歌にした。
歌が、戦の手段に使われることなどないように。
歌姫が波間に沈むことなどないように。
「二人の歌姫、彼女たちと交わした約束のしるしが―――そう、この歌なのです」
竪琴の調子を整え、軽く息を吸い。
紫の吟遊詩人は、歌いはじめる。
今となっては昔の物語―――されど、永遠に未来へと続く「約束のしるし」を。
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