8、It is keep off to my world
「鷲見さんは本当に強い人だね」
僕は思わず苦笑いを浮かべる。
春の終わりには相応しくない笑顔だ。
梅雨の訪れを知らせる生ぬるい風が頬を撫でた。
「そりゃそうだろ。慣れればいいさ」
エノヒロは、売店で買っておいたクロワッサンを風通しのいい体育館の窓際で頬張る。
鷲見さんは気が強すぎて太刀打ちできる相手ではない。
少し喋りかけると、
「必要なこと以外喋りかけないでください」
って一蹴される。
友達は少なからずいるみたいだけど、そこでも笑顔は見せない。
一度、その友達に話しかけてみて、鷲見さんがどんな人か訊いてみたところ……。
「五十鈴は本当に干渉されるのが嫌で仕方がないらしいんだ。小学校の頃から友達なんだけど、あんまり五十鈴は笑わないんだ。どうしてかわからないけどね……。昔から感情を表に出すのが苦手だったから、それを引きずってるかもしれないし。五十鈴は真面目だから冗談で言われたことを真に受けやすいから気をつけてね」
と言われた。
「過去の事を引きずりやすい、笑わない、感情を殺しているかもしれない」
独り言のように呟いたのが鷲見さんの課題だ。
「急にどしたの?」
エノヒロはクロワッサンの欠片を口に入れて言う。
エノヒロに独り言が聴こえたのだ。
「今の課題だよ」
「だれの?」
「それは秘密」
エノヒロは「あぁ。そうか」と言うような顔をしてラケットを持ち、体育館に入っていく。
「あ、でもさ」
エノヒロはそう言って僕を見た。
「そういうの、不器用って言うんじゃねぇか?」
不器用か……。
「ユウカは不器用だからなぁ」
「そうだけど悪い?」
「悪かねぇよ。それも個性だし」
エノヒロはそう言ってラケットを僕に渡した。
「お手合わせお願いします」
「望むところです」
まだ、部活が始まる前の静かな体育館にキュッキュッというバドミントンシューズの音が鳴り響いた。
*
今日は、顧問の先生が来なかったので早めに部活を切り上げることにした。
部活で使った道具を片付けて、黒基調のエナメルバッグを背負って部室を出ようとしたときに気付いた。
しまった。
教室に筆箱を忘れてきた……。
明日取りに行けばいいか。と思ったがそうはいかない。
今日は特別に木戸先生からの宿題があったのだった。
最悪だ。確認しておけばよかった。
「ユウカ、帰ろーぜー」
エノヒロは部室の鍵を人差し指で回しながら言う。
「ごめん、僕、教室に忘れ物してたから取りに行くね。先に帰っててもいいよ」
「あ、そうなのか? わかった」
エノヒロはそう言って体育館を後にした。
僕は急ぎ足で教室へと向かう。
幸運なことに鍵が開いていた。
あぁ。
神様が僕を助けてくれたのですね。
僕はそう思いながら教室の戸をカラカラと開ける。
教室内には一人ポツンと鷲見さんがいた。
鷲見さんの目は、赤くなっていた。
*
クラス替えをして、親友の友ちゃんと離れてしまった。
私、鷲見五十鈴はこれからが少し不安になってくる。
自分は友達を作るのが苦手だ。というか、自分に余裕がない。
自分は周囲から『真面目』といわれている。
その周囲の期待を裏切らないように私は日々暮らしている。
提出物は必ず期限前にだし。
先生の話はちゃんと聴き。指示には忠実に従う。
自分で言うのも恥ずかしいんだけど、私は本当に真面目だ。
「友達できた?」
なんて、友ちゃんが言ってくれるのだけど、私はやっぱり自分に精一杯なのでできないと答える。
そしたら、友ちゃんは苦笑いを浮かべたなぁ。
やっぱり、友達を作った方がいいのかな?
でも、鹿野君みたいに鬱陶しい人は嫌だしなぁ……。
放課後。
さぁ。部活に行こうと思っていたときにクラスの女子に声をかけられた。
「あのさぁ。鷲見さん。これ……お願いできるかな?」
と言って私に差し出してきたのは、アンケート用紙だった。
「このアンケートね、生徒会のほうから集計をお願いって言われたんだけど、今日用事があってどうしてもこれができないの。でも、鷲見さんならできると思うから。お願い。これのアンケートの集計をしてください」
その女の子は、両手を合わせて頭を下げ、私に頼み込んできた。
でも、部活したいな……。
でも、よくよく考えたら、学校のためだし。
ここで、真面目じゃないって思われるのも嫌だから……。
「いいよ。引き受ける」
私は、背負いかけたリュックサックを下ろして椅子に腰を下ろした。
「やった! ありがとう」
その女の子は、輪ゴムで縛られたアンケート用紙を私の机に置いて、教室を後にする。
さて。引き受けたのはいいものの、どこから手をつけようか。
これじゃあ、さっぱりわからないから、とりあえず輪ゴムを外してアンケートの無いように目を通す。
アンケートの内容は、『大嶺中学校のいいところを探そう!』だ。
そういえばこの前こんなアンケート取ったような気がするな。
アンケート用紙を見ているうちに、私に仕事を託した女の子からのメモがはさんであった。
「一枚のアンケート用紙に大体一つくらい大嶺中のいいところが書いてあるから、その中で一番多かったいいところを一番下の用紙に書いて生徒会室に持っていってくれるかな? ごめんね。急で」
女の子らしい可愛い字体で書いてある。
よし。することもわかったんだし。やってみよう。
*
完全下校時間まで、残り三十分前のことだ。
このアンケートの集計が一向に終わらない。
私の効率が悪いのか、アンケート用紙が多いのか。
もう、訳がわからなくなり、この仕事を引き受けたことを後悔している。
泣きたくなってきた。
私はいつもこうだ。
自分ひとりでは、何もできやしないのに人から頼まれたことは何でも引き受けてしまう。
それは、私の価値観を落とさないため。
私が長年築き上げた『真面目』という建前を壊されないため。
そうしたら、いつの間にか私にはゆとりがなくなっていた。
変な話だなぁ。
なんて思っていると、目から涙が出てきた。
泣きたいなんて思っていないけど……。
自然と涙が出てきた。
私……。無理してたのかな?
ううん。今は泣いている場合じゃない。
早くアンケートを集計しないと……。
気持ちを改めて、流れ出てきた涙を拭いたとき、教室の戸がカラカラと音をたてて開いた。
目線を向けると、そこには鹿野君が立っていた。
うわっ。最低だ。
鹿野君は、私を見るなり、少し驚いた様子で教室に入る。
そして、無言で自分の机の中を覗いて筆箱を取り出した。
もう用件が済んだのか、鹿野君は教室を出た。
泣いたところ、見られたのかな?
私がそう思うと、また教室の戸がカラカラと開く。
「どこか痛いの?」
鹿野君は心配そうな表情で、私を見る。
私が何も言わなかったもんだから、鹿野君は私の近くに来た。
そして、自分の椅子に座り、私の顔を見た。
「何か、辛いの?」
鹿野君は、真っ直ぐで心配そうな目をして私に質問を投げかける。
ふと、鹿野君は私の机を見る。アンケート用紙が目に入ったらしい。
「これが辛かったの?」
鹿野君は長い指でアンケート用紙を指差す。
「それだったら、手伝うよ」
鹿野君はそう言って、私の向かい側に来て、アンケートの集計を始める。
「落ち着いたら、話聴かせて。話せないなら、話さなくてもいい。これは僕がやるから」
そう言った鹿野君の姿は珍しく、男らしく見えた。
いつもは私に、ずっと喋りかけてくる、ただの鬱陶しい人と思っていた。
でも、本当は。
本当は。
こんなに優しくて、人思いの人なんだ。
私の頬が熱くなるのが分かった。
なんでだろう?
ものすごく胸がチクチクして息苦しい。
病気かな?
しばらくして、鹿野君のアンケート集計が終わった。
「はい。これで最後」
鹿野君はそう言って輪ゴムでアンケート用紙を縛る。
「ありがとう」
私はそう言って頭を下げる。
「何が辛かったの?」
鹿野君はまた、私と目を合わせようとする。
私は、なんて言えばいいかわからなくて、ただ、静まり返った教室に沈黙が残るだけだ。
「僕が思うにはね」
しばらくして鹿野君が口を開く。
「鷲見さんは無理してたんだと思う」
鹿野君は、そう言ってまた続ける。
「鷲見さんは、真面目っていう言葉にとらわれすぎて、周りに気を遣い過ぎているとこの一ヶ月で感じた。そして、鷲見さん自身が自分に自信とゆとりがないということにも気付いた。鷲見さんは、誰かのために、何かをしている。いつもそうだよ。このアンケートだってそうだよ。人から頼まれたことは、絶対にこなさないといけないっていう、無の使命感と『鷲見さんは真面目』というみんなの固定観念が鷲見さんを知らず知らずのうちに縛っていたんだよ」
鹿野君は妙に説得力のある言葉を並べて私に言う。
「鷲見さんは、もっと肩の力を抜いて周りを見てみたらいい。まだ、世界は広いんだから。鷲見さんの世界は狭い。だから、それを切り開くために、僕が力を貸すよ。困ったときには、すぐに僕を呼んで。鷲見さんは真面目でもなんでもない。鷲見五十鈴という一人の女の子なんだよ。そんなに無理をすることはないよ」
鹿野君の言葉に、強く胸を打たれた。
胸の奥深くの部分が熱くなる。
それと共に、涙が出てきた。
この言葉に、このたった何分の間に
どれだけ私は
救われただろうか……。
気付いたら、鹿野君は私の頭を撫でていた。
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