ミクが自力での自立を果たしてから、僕達は時間を忘れて歩く練習に没頭していた。
人間より数倍の学習機能を持つミクの足取りは次第に安定し、僕に任せる体重は見る見るうちに軽くなっていく。自室からリビングへ。リビングから自室へ。段差はまだ難しいが、約五十メートルの距離を踏破したのは、立ち上がったばかりのミクにしては驚くべき記録だった。
それでもまだ歩幅は三十センチ程度であるし、僕が手を離せば、ミクは為す術も無く床に伏してしまうだろう。また、踏み出すだけでも大腿に掛かる負荷は半端ではない。
だから僕もミクの手を離さず、常にミクと歩みと痛みを共にした。
常に共にあり、いつでもお互いを見ている。歩き続けるうちに、僕達はそんな関係になっていた。だからこそ、心を通じあい神経の通わないミクの手は片時も僕の手を離さず、僕は作り物であるはずのその手に、温もりさえ感じていた。
君は、僕と共に歩んでいてくれる。だから僕も、見ている。君を。
時間を忘れて歩き続けた僕達は、気づいた頃に歩き疲れ、いつの間にかスタート地点だったリビングに戻り、いつの間にか二人揃ってソファーに沈んでいた。
◆◇◆◇◆◇
「ひろき・・・・・・もう、つかれた。」
立ち上がることもやっとの足の足に鞭打ち、狭い家の中でぐるぐると歩きまわったミクは、深くために気を付いて僕に身を寄せた。
「今日はよく頑張ったね。もう、夜まで休んでいいよ。」
そう言い、ミクを膝に乗せた僕も、正直足首に痛みが走っていた。
でも、この痛みはミクと分かち合った痛みだから、たとえ僕はこれ以上の、どれほどの激痛が全身に襲いかかろうとも苦ではないつもりだ。
ミクはきっと、こんな足首の痛みよりもっと辛い思いをして歩き続けたのだから。
「それにしても驚いたよ。もうあんなに歩けるなんて、すごいよミクは。」
「ひろきがいてくれたから、ひろきのおかげ・・・・・・ありがとう。」
「ううん。今回の努力は、全部ミクのもの。僕は君と手を繋ぐぐらいしかできなかったから。」
だから僕は、ミクの努力を称えるために、優しくその体を抱きしめて、頭を撫でて褒める。それぐらいしかできないけど、僕と一緒に過ごすことをミクが望むなら、僕は出来る限りミクと一緒にいようと思う。
でも、この狭い家の中だけじゃ駄目だ。ミクには、早く広い世界を見せてあげたい。
「ねえミク。夜まで休んだら、外に出てみない?」
「え?」
「君に見せたいものがあるんだよ。」
「みせたいもの?」
「うん。」
それは年に数度夜空で見られる、月の大接近だ。
二十年前、この日本の半分を隕石が襲った。その被害は西日本を草一本も生えない死の大地に変えたばかりか、衝撃で僅かに地球が移動してしまうと言うとんでもない事態まで巻き起こした。
それによって地球が月に近づき、月は年に数回、地球の重力に吸い寄せられる。だから、最初に大接近したのは月ではなく、地球であったと言うことになる。
夜空を覆いつくさんばかりの月の姿は、思わず溜息が出るほど美しい、黄金に輝き、その光はまるで昼のように世界を照らす。
僕は子供の頃、孤児院の窓から何度か見たぐらいであまり興味を示さなかったが、初めて外の世界に触れるミクにとって、これほど贅沢な外界のお迎えは他にないだろう。きっとミクも、気に入ってくれるはずだ。
「みせたいもって、なに?」
「それは夜までのお楽しみ。まだ教えないよ。」
「おしえて・・・・・・!」
僕がいじわるな笑を浮かべてみせると、意外にもミクは強情に僕の膝の上で振り返り、僕に全体重を押し付けた。
でも恐らく今でも三十キロ有るか無いかの体を上に押し付けられてもくすぐったいだけで、というか、僕の些細な意地悪に頬を膨らませるミクの姿に、心臓を直接握り締められたようにときめいてしまい、僕は無意識にミクを抱きしめていた。
「ごめんね。でも、すごく綺麗で、ミクもきっと喜んでくれるから。夜まで待とう。ね?」
「・・・・・・分かった。」
「うんうん。」
と、僕の言葉で素直になるミクも、簡単な表現だけど、ものすごく可愛い。
もう、夜までこのままでいようか、それの方がいいかもしれない。
この家にはテレビもラジオも新聞もない。あるのは僅かな家具、会社の書類、そして僕。特に自室なんかベッドと箪笥と机ぐらいで、机上からパソコンを取り払ったら、まるで囚人室のような殺風景な場所だ。
だから、ここではミクに何一つ教えてあげることはできない。早く、そしてなるべく多くの時間、ミクを外に世界に触れさせることが、ミクにとって一番の勉強になる。
でも、そうするより・・・・・・。
「ひろき、すこし眠たい・・・・・・。」
「ああ、じゃあソファーで寝ちゃおう。毛布持ってくるね。」
「だめ・・・・・・。」
立ち上がろうとした僕に、ミクが手を伸ばした。
意志に従わない作り物の指で、僕の着ている服の襟をつかもうとしていたのだ。
「ここにいて・・・・・・・ここに・・・・・・。」
「あ・・・・・・うん。そうしよう。」
そう、ミクとこうして、静かに身を寄せ合っていることを僕は望んでる。そんなことはミクの為にならないことは、分かりきっているのに。
でも、僕を見上げ、切なく潤った瞳に僕が抗えるはずもなかった。ミクとソファーに寝そべると、ミクは僕の胸元に潜り込み、その体を僕に任せた。
ミクの髪は頬に触れると、羽毛のように柔らかく、しっとりしていて、その温もりは、僕の心が安らいで、その胸からは、確かなミクの鼓動が伝わって。
これでも、いい。そんな気がしてならない。
色々と物事を考えることも、僕はもうできなくなっていた。ミクの体温が、僕を微睡みに誘うせいで・・・・・・。
◆◇◆◇◆◇
「ミク、準備はいい? 足は大丈夫?」
「うん・・・・・・いこう・・・・・・ひろき。」
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