♭ ♭ ♭


前期の授業をほとんど落とした。
無理もない、一週間まるまる大学に行かない週も珍しくなくなっていた。
このままでは、進級すら危うい。

彼の数少ない友人は、はじめの方こそメールや電話などで、
「ガッコ来いよー」
なんて言ってくれていたのだったが、彼は無視し続けた。

友人たちに会うのが、嫌だった。なんというか、怖かった。
「リア充」そのもの、という友人たちから、自分はいったいどう見られているんだろう。
彼らの前に立てば、劣等感に苛まれることは分かりきっている。
さしてオシャレでもなければ、もちろん「イケメン」であろうはずも無い。


テレビを見ているとき。
大学のキャンパスを歩いているとき。
電車に乗っているとき。
深夜のコンビニバイトをしているとき。

様々な局面で「リアル」に打ちのめされるたび、彼は自分の自己価値を見失ってしまう。
こんな自分など、もうどうでもいい……そんな思いが、彼をますます無気力にさせる。

彼は、大学の友人達に会うことが億劫であり、会話もしたくなくなっていた。


当然、そんな彼から友人は離れていく。
いつしか、彼の携帯にはメールも電話も入らなくなった。
その事実が、彼をいっそう劣等感に追い込む。

――僕はしょせん、友人も居なければ能力も無い。そんな僕に、彼女なんか出来るはずも無い……。

劣等感が彼を外出から遠ざけ、引き篭っている事実が劣等感に拍車をかける。
完全に悪循環に陥っていた。


けれど、そんな彼にも心の拠り所、唯一と言っていい拠り所が、ミクだった。

「なんか、ちょっとお疲れのようですね……マスター?」
デモを歌い終えたミクは、心配そうに彼を見つめる。

少し首を傾げる仕草に、彼は微笑む。
「寝不足かもね……昨夜も音源をあさってて、朝になっちゃった」
笑って見せ、彼は思う。

――ミクのために生きるって選択肢は、アリかもな。

大げさな、と思うかもしれない。
けれど、「味方がいる、と実感できること」とは、その人の生き死にすらも左右する、重要なことがらになりうる。
彼にとって、ボーカロイド「初音ミク」は、間違いなく、彼を支え、生きる活力を見出させた。
彼女のための曲を作成しているとき、彼はそういった鬱々とした気分から解放された。


ミクは、どこまでも彼の“味方”だ。
彼を許容し、気遣い、嬉しがったり感謝したり……、時にはわがままを言ったりもする。
けれど基本的に、彼がすることすべてに肯定的な反応を見せた。


♭ ♭ ♭


ある日、いつもの通りミクとともに出かけ、自宅に帰ってきた時。
郵便受けに、一通の封書が入っていた。
ミクがそれを見つけ、取り出す。
彼も、横から覗きこむ。

左上に「親展」の文字。
下のほうに、彼の通う大学名と、「学生課」という印鑑。
宛名は、彼の両親となっている。

彼の気持ちが、一瞬で暗くなった。
封書をミクからひったくり、ビリビリ破く。

その封書が何を意味するものか、彼には分かっていた。

――関係ない。関係ないんだ。

頭の中から、必死に“それ”を追いやりながら、玄関のカギを開ける。

その後姿を、ミクは寂しそうな目で見つめていた。


♭ ♭ ♭


頭が、痛い。
ここ数日、軽い頭痛はあったが、ただの寝不足だろうと思っていた。
しかし、今朝から続くこの痛みは、尋常じゃない。

部屋はおろか、ベッドからさえも、まだ一歩も出ていない。
カーテンの隙間から差し込む日差しが、鬱陶しい。
早く夜になって欲しいと思う。
夜になれば、この頭痛も治まるような気がする。

母親が、部屋の外から何やら呼びかけている。

聞こえない。
聞きたくない。
知らない。
何も知らない。

やがて母親は、仕事に出かけた。
もう、帰ってこなきゃいい……本気で、そう思う。


微睡みと覚醒とを何度か繰り返し、その度に頭痛がまだあることを認識してうんざりする。
ベッドサイドに誰かが立っている。

ミクだ。
手を伸ばすと、そっと包まれた。

「マスター……」
心配そうな声。

「大丈夫だよ。それより、ゴメン。曲、まだ途中なんだよね」
声が掠れている。まるで自分の声じゃないみたいだ、と思う。

曲のことはいいんです、といいながら、ベッドサイドに膝立ちになる。

そして、おずおずと、言った。
「マスター、学校……、行かなくて大丈夫ですか……?」


頭痛がひどくなる。
苦しくて、呻く。
ミクが、心配そうに彼の名を呼ぶ。


♭ ♭ ♭


窓から月の光が差し込んでいる。
蒼白く浮かび上がるブラウス。
ミクは、カーテンの隙間から月を見つめている。

――ごめんなさい。

声にならない声で呟くと、彼女は目を閉じてプログラム言語を暗唱しだした。


♭ ♭ ♭


深い海の底のように、暗く、青い。

――ここは……、どこだ……?

目の前に、青年のパソコンがある。
誰も操作していないその画面で、何やら作業が行われている。

――何が起きている……?

近づいて見る。

[プログラムのアンインストール]がクリックされる。

慌ててマウスを滑らせる。
カーソルは反応せず、淡々と作業を進める。

[VOCALOID 2 miku]が選択され、別のメニューが開いて[削除]が選択される。

――ちょっ、何やってんだ。

キーを手当たり次第押す。
キーも反応しない。
誰か別の人が操作しているかのように、ディスプレイの中で、カーソルは項目を選んでいく。
クリック音が、無音の空間に、いやに大きく響く。

[選択したアプリケーション、およびすべての機能を完全に削除しますか?]
というメッセージが表示される。

――待て、待ってくれ!

[はい]のボタンがクリックされる。

画面にプログレスバーが表示される。

「待ってくれ!!」

彼の言葉は、声にならない。
プログレスバーは、あっという間に右端まで塗りつぶされる。

パソコンの横に、ミクが立っていた。
彼女の像に横走りにノイズが混じる。

「……ごめんなさい、マスター」

ノイズはみるみる大きくなる。

「ミク!! 待ってくれ、僕は……」

その姿は、砂嵐のように消えた。


♭ ♭ ♭


目を覚ます。

汗をびっしょりかいている。
心臓が、早鐘を打っていて、胸のあたりが痛いくらいだ。

青年は慌ててベッドを抜け出し、パソコンを起動する。

すべてのプログラムを参照しても、[VOCALOID 2]は見当たらない。
[ゴミ箱]は空の状態。

ミクのために作成した音楽ファイルだけが、ボーカルなしの状態で保存されている。

「……そんな……」

月明かりとディスプレイの光に照らされ、彼はそのまま夜が明けるまで放心状態だった。


♭ ♭ ♭


青年はその後、大学を辞めた。
そして音響の専門学校に通う傍ら、レコーディングスタジオでアルバイトを始めた。
来年の卒業後には、晴れて社員になれる見通しだ。

音を扱う仕事をしたいと思ったのは、ミクが居なくなってしばらくした後だった。
ミクのために作成した音楽ファイルが、投稿サイトにて高い評価を得られたためだ。


楽曲を作成するとき、彼はひときわ音源の質にこだわり、また使用音源の楽器そのものをよく知ろうとした。
それは彼が、ミクにもっと気持ちよく歌ってもらいたいと願い続けた結果だったのだ。

青年の、レコーディングにかける情熱は、ひとえにミクへの愛情であったかもしれない。
もう、かつてのような劣等感は――完全にゼロとは言い難いが――無くなった。


けれど、楽器店やPCショップで、“それ”を見かけるたびに、彼の胸が痛む。


『キャラクター・ボーカル・シリーズ』は、現在3つのラインナップがある。
その他にも、複数のメーカーからボーカロイドが発売されている。
いわゆる「派生キャラ」と呼ばれる、架空のボーカロイドも数多く存在する。


けれど、彼にとっての「ボーカロイド」は「初音ミク」ただ一人であり、
「初音ミク」とは、一緒に買い物や食事をし、彼の歌を歌う、「あの彼女」なのだった。


彼女はもう、どこにも居ない。

そのことを考えるたび、彼は恋人を喪ったような、辛い気持ちになるのである。




coda

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

A kind of Short Story from 『tautology』 4/4

※2ch創作発表板にて投稿した作品の改訂版です

これが最終パートです
ここまで読んで下さった方、ありがとうございました

閲覧数:261

投稿日:2010/06/27 22:57:03

文字数:3,432文字

カテゴリ:小説

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