「わぁっ!」
書斎の方から声がして、僕は扉を開けて中を覗いた。
「……何やってるの?」
少女が僕の家で暮らし始めてから、一週間以上が経っていた。腕を怪我した僕のためか、彼女は慣れない手つきで家事をしてくれている。
だが、料理は壊滅的で、掃除洗濯はそこそこ上手いのだが、たまに失敗する。
埃の中でせき込みながら、少女は「大丈夫」と繰り返した。
「この部屋、一体何年掃除してないわけ? ありえない」
落ちてきた本を戻しながら、少女はまたせき込む。窓がない暗い部屋に、年季の入った本が並ぶ部屋。
「いつからだろう……」
そういえば、この部屋は掃除した覚えがない。
元々男の一人暮らしだったし、家事は嫌いではなかったけれど、この部屋にはいつも手をつけていなかった。
最初から埃まみれの部屋だった気がする。いつから、なんて覚えていない。
「十年くらい、かな……?」
自分の年齢からして、そのくらいは掃除していないはずだ。
でも、どうしてだろう。何も思いだせない。
昨日のことは思いだせるのに、少女と出逢った時のことも、その直前のことも思いだせるのに、「数年前」の記憶が、どこにもない。
僕は混乱した。
気付けばこの世界にいた。命なんてそんなものだと思っていた。
どこから来てどこへ行くのか、それがたとえば天国や地獄なのか、そんなものは生きている間は分からないことなのだと。
そう当然のように思っていたがために、自分の記憶が数カ月分しかないことにすら、気付かなかった。
何故。僕は十四歳だ。生まれたときからこの村にいる。それは知っている。子どもの頃から、ミク姉やルカ姉に遊んでもらっていた。それも知っている。知っているけれど、覚えてはいない。それはつまり、どういうことだ?
考え始めると、耳鳴りがしてきた。
世界が遠ざかるような感覚。世界と自分が解離していくような、壊れていくような……。
「なにこの文字」
少女の言葉で、現実に引き戻された。少女は、本の表紙をこすりながら、首を傾げている。
「それは魔法使いにしか読めないよ」
「なにそれ、頭いい人間だけの文字?」
別にそんなこと言っていないし、僕は別に頭がいいわけじゃないよ。剣士たちと違って、勉強に時間を割いている分、知識はあるけれど。
「まあいいや。ほら、埃たつから、閉めた閉めた。あんたは外に出てなさい、身体弱いんだからさ」
別に、君よりは体力ないかもしれないけれど、身体弱いってほどじゃないんだけどな。
そう思ったけれど、少女が睨んできたから、しぶしぶ扉をしめて、その部屋を後にした。
最初から気付いていたことではあったけれど、少女は僕を通して「誰か」を見ている。そして、その「誰か」を、少女は失ったらしい。
あの日、僕の目の前で泣き崩れた彼女は、いくらか素直になった。僕のことをそれまでほど拒まなくなった。
だけど、僕はそれまでと違う意味で混乱するようになった。
少女が僕に対して、その「誰か」の情報を適用しているらしいのだ。そしてそれは、ニュアンスの違い程度はあるけれど、大抵当たっている。
どうやら、その「誰か」は、頭がよくて身体が弱かったらしい。そしてそれは、少し意味合いは違うけれど、僕にもある程度当てはまることだ。
-----
「まぁ、うまくやってるなら良かったんじゃない?」
ルカ姉は、そう勝手にまとめた。うまくやってる、と言えるのだろうか。彼女が僕を見ているのかどうか、さらに分からなくなってしまった現状。
「あんたとよほど似ていたのね、きっと。まぁ、あんたとあの子も、ものすごくよく似ているけれど」
「あ、やっぱりそうなの?」
僕がそう訊くと、ルカ姉は溜息をついた。仕方ないじゃないか、水に映った自分の顔と、目の前にいる少女を見比べたって、よく分からないよ。
「世界には同じ顔の人間が三百人いるっていうからね」
「そんなにいるんだ……」
それは初耳だけれど、以前、街でミク姉とカイト兄のそっくりさんを見つけてびっくりしたことがある。そういう経験は、珍しいことではないらしい。
「ミクとも仲良くやってるみたいだし。カイトとは上手くいってなさそうだけど、まぁそれは放っといて」
「まぁそれは仕方ない」
話しながら、手は休めず、作業を進める。
ここは村の中心、村長の屋敷の中庭だ。村を守っている魔法陣がそこにあって、その中には時間と共に薄れていくものもある。そういったものを定期的に調べるのも僕の仕事のひとつ。
「終わったら、メイコのところに行きなさい。昔使っていた剣を、あの子にあげてもいいって言っていたから」
「本当? じゃあ、いろいろ頼んでみようかな」
得物も必要だけれど、それだけで剣士になれるわけではない。基礎体力は生まれ持っているようだったけれど、技術は他人から盗むしかない。そして、僕には剣のことなどさっぱりだ。あの子の修行に付き合ってくれる剣士が必要だった。メイコ姉が剣をくれるということは、その辺も頼めばやってくれるだろう。
「でも、この後は一回家に帰らないと」
太陽の位置を見る。もう、こんなに高い。少女はおなかをすかせているだろう。料理だけは彼女に任せられない。
「まあ、別になんでもいいけど」
ルカ姉はそう勝手に納得して、家の中に入ってしまった。僕はただその作業を続けて、終わるころには太陽は真上からわずかにずれていた。
遅くなってしまったと焦りながら、家に帰る。焦るほどのことではないけれど、何故だかすぐに少女のところへ行かなければ、と思った。
「ただいま」
家の中にそう叫んでも、答えはなかった。いないのだろうか。家の中を見て回ると、食卓の上で少女が寝ていた。待ちくたびれたらしい。
「ごめんね、今つくるから」
夢の中の少女にそうささやいて、台所の方へ向かう。そのとき、後ろから声がした。
「レン」
あまりにも明瞭な声に、驚いて振り返る。少女は、僕のことを名前で呼ばないはずだった。
少女は、先ほどまでと同じ体勢で寝ていた。
寝言だったのだろうか。しかし、寝言だとしても、彼女は確かに僕の名前を呼んだ。
呼ばないと言った名前を。
あんたは違う、と拒否した名前を。
「レン……それが、君の大切な人の名前なの……?」
答えはなかった。
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