冷たい雫
雨が降っていた。
細い吐息は白く、晒した手がかじかむような氷雨が、暗い禍々しい黒の曇天より街へ降り注ぐ。
その止め処ないゼロ度の雫はひとりの男の頭髪に落ち、そしてコートの肩へと流れ、曇天より尚暗い色をした銃身を伝い濡らした。
「さぁ、早いとこ蹴りをつけよう」
真っ赤な傘を差した黒スーツの禿頭が、十数メートル手前のずぶ濡れへ向けてそう言った。
「……くっ」
ずぶ濡れの男は満身創痍のようで真っ直ぐに立っているのも容易ではないらしく、足元の水溜りは禿頭の持つ傘と同じに染まっていた。
「おい、うんとかすんとか言ったらどうだ。遺言代わりに聞いてやるぞ」
「……黙れハゲ。あんたの稼ぎなんかには死んでもなる気はない」
気力を振り絞り、ずぶ濡れが重い銃を持ち上げ禿頭に狙いを定めた。いや、実は掻き集めるほどもなかった気力が、重い腕で無理矢理銃を持ち上げたに過ぎないのか。
巨漢に似合わぬ小さな傘がさも可笑しそうに、小刻みに揺れた。
「ふふっ、そうか。お前みたいな社会の底辺でのた打ち回っている奴でも、生きる意地はあるか。……ならば全力でかかれよ。俺は容赦はしない」
傘が、禿頭の手より離れた。
真っ赤な傘は冷たい雫降りしきる中でふわりと浮かび、落ち、汚い泥水へと浸かった。
黒のスーツが、糊の効いたワイシャツが、その毛髪の一本すらない頭皮が、肌を刺すような氷雨に打たれていく。
そして傘と入れ替わるように、黄金の銃が禿頭の手に掲げ持たれていた。
「ぎちぎちの筋肉ダルマが……。悪趣味極まりねぇ」
しかし禿頭は聞いているのかいないのか反対の手でおもむろに自らの懐をまさぐり、
「うむ……。コインがいいな。趣があっていい」
銀色に輝く一枚の硬貨を取り出した。
数代前の素っ気無い大統領の顔が、傷一つ無い金属表面が、てらてらと濡れて光っていく。
「……あんたらしい発想だな」
「そう思うか」
にやにやしながらごつい指で禿頭はそれを弄ぶ。よもすれば簡単に折り曲げてしまうのではないかと思うほどのごつい指だ。
愛好を崩しずぶ濡れが言う。
「それを掛け金にポーカーで勝負をつけようってんだろ?」
「いいや、違う」
「わかった。ブラックジャックだ」
「それも違う」
「じゃぁ……」
本気なのか冗談なのか、判別に苦しむそのずぶ濡れの表情に禿頭が肩をすくめ、銃口を下げた。
哀れみとも、純粋な悲しみともつかない目の色を禿頭はしていた。
「……もうふざけるのはよそう。俺はお前を殺しに来た。お前は罠にかかり傷を負い、そしてその傷は深い。……逃げられないんだよ」
禿頭の言葉にすぅっ、とずぶ濡れの目が細くなった。その目つきに、禿頭は悲しみ、過去へはどう足掻いても戻れない事を知った。
「……誰に仕事をもらった」
「言えない」
「俺が、ここで死ぬとしてもか」
「そうだ」
禿頭が銃を構えなおす。最早目に迷いの色は無かった。そしてコインが投げ出され、それは軽やかに宙を舞った。
僅かばかりの光を反射して、硬貨は自由落下していく。
「友よ……、さよならだ」
きらきらと煌いていくコインが泥水の中へ沈んでいく手前――ばんっ――と、銃声がずぶ濡れの鼓膜に残響した。
……ぽちゃん。
「……ずる…ぞ」
温かいものが、ずぶ濡れの胸から流れていた。真っ赤な、傘よりも真っ赤なものが溢れ出していく。
「…る…せ」
温かいものが、禿頭の眦より流れていた。熱い、自らが撃ち放った弾丸よりも熱いものが溢れ出していた。
だがどんなに熱くても、それがずぶ濡れに見える事は無かった。禿頭のただ唯一の救いは刺すように冷たく、その勢いを増した。
「……かは…っ」
ばしゃ。
背中から泥水へと倒れ込む。銃は離れ、どこへとも知れずに転がっていった。
撃つつもりだった。
撃って殺り返さねばならなかった。
でも、ずるをされた。
「しょうがない、…な……」
雲の切れ間から、目に痛い程の夕日が差し込んでいた。それはビルの陰へ今に隠れようとしている。
ゆっくりと傾いていき、そして沈んだ。
リバース
瑠璃色の光が男を包んでいた。
やわらかく、そしてやさしく、重力が離れ宙に漂っているひとりの男の周囲に満ちていた。
無音の世界。
未練を残す者が辿り着く場所。
そこはそう呼ばれている空間だった。
生きている限りは辿り着けない理想郷。そこに男は浮かんでいる。
鼓動もなく、体温すら既に失われて、誰にも弔われる事なくただそこに在り続けていた。
光が集まっていく。
光が凝縮し男の身体に集まっていく。やがて彼の身体は淡く発光し出し、それは爆発的な青い光を放った。
消える。消えていく。男の身体が消えていく。
そしてあたりには何も残らない、瑠璃色の空間だけが残った。
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