カレーを食べ終わりお腹が膨れて、少し元気になってきた休憩時間のことだった。
「鹿野くーーーん」
聴きなれた加治屋さんの声が聴こえる。この声を聴くと、昨日の出来事が思い出される。
『大っ嫌い』
この言葉が今日、どれだけ僕を苦しめただろうか……。
心の不安材料を思い出したところで、僕は振り向く。
加治屋さんの額には、汗が滲んでいた。黄色のカチューシャはいつもと変わらない輝きを魅せている。
「ちょっと言いたいことがあるから、あそこにいいかな?」
加治屋さんはそう言って、海岸近くの茶色のベンチを指差す。
「あぁ。いいよ」
俺はそう言って立ち上がり、海岸近くのベンチに向かった。
*
「わぁ、潮風が気持ちいいよ」
加治屋さんはそう言って大きく伸びをし、髪を整える。黒い加治屋さんの黒髪は、キラキラと輝きを魅せて、美しい。
「話って?」
昨日の今日であるので、少し気まずい。早く終わらせようと、僕は口を開いた。
「うん……。昨日のことでね……」
加治屋さんは、切ない顔をして続ける。
「昨日は、私も言いすぎたと思ってる。やっと勇気が出たくらいであんなに怒った自分は惨めだなって思った。ごめんなさい」
加治屋さんはそう言って頭を下げた。
「頭上げて」
僕は、情けない声を出して言う。
「事の始まりは僕なんだ。僕が悪いから謝らなくていいよ」
「そうかな……」
加治屋さんはそう言って、悲しげな顔を見せる。僕はまたそこでハッとした。また、加治屋さんの悲しい顔を見てしまった……。
「エノヒロ君から聴いたんだけど……」
気分が落ちているのもお構いなしで、加治屋さんはそう言って頬を赤く染める。
「鹿野君は……。私のことが好きだったの?」
しばらくの沈黙が続く。潮風が僕と加治屋さんの髪を揺らす。
「……うん。……そうだよ」
僕はそう言って、そっぽを向いた。海の色までも夕日に染められて赤く染まっている。
「私がこれを聴いたときはね、エノヒロ君に告白しようとしたときなんだ。告白しようとしたら、エノヒロ君から待ったがかかっちゃって。そしたら、エノヒロ君が、鹿野君の事言ったの」
加治屋さんは一度話を止め、海を見る。
「ユウカは、俺より加治屋を思っているから。今から俺に言おうとした台詞をユウカに言ってやってくれって、頭を下げて頼まれた。正直、そのときどうすればいいかわからなかった。でも私は、これがエノヒロ君なんだなって思って、改めて自分がエノヒロ君のことを好きか実感したの。でも、エノヒロ君が言ったことを果たしたくて、ここに来たの」
加治屋さんはそう言って夕日に染められた海を眺める。
今、加治屋さんの言ったことが本当ならば、僕は少し腹が立つ。
エノヒロが自分の気持ちを押し殺してまで、僕のことを優先するなんて……。
「加治屋さんは……。僕のこと……どう思ってるの?」
心中を隠して、加治屋さんに質問する。
「鹿野君は、前々から優しいと思ってた。そして、弱い人だなぁとも思っていた。私が何かできないかなぁって考えたこともあった」
加治屋さんはそう言って最後に付け加える。「一時期は、鹿野君に気持ちが揺らいだよ」
そう言われるとなぜか心がむず痒い。胸の辺りがムズムズする。
「じゃあ、エノヒロと僕はどっちが好き?」
僕がそう言うと、加治屋さんは苦笑を浮かべる。
「でも、やっぱり、エノヒロ君が好きだったなぁ。もう、フラれたんだから。もういいよ」
加治屋さんは、苦笑を浮かべながら涙を拭った。
うん。決心がついた。
僕は、そう心の内にそう唱える。
「自分の気持ちを押し潰して現実から逃げるなんて……。一番卑怯だよね」
僕も苦笑を浮かべて、加治屋さんの手を握り、ベンチから腰を浮かして、駆け出した。
昨日の場面をまた繰り返しているようだった。
*
「で? 大丈夫?」
「うん。まぁ……」
晩ご飯の片付けをし終わって、自由時間のときにあたしと権弘は二人で話していた。権弘が帰ってきたとき、萎れた笑顔を浮かべて帰ってきた。一緒の班の松江君が心配するほどの元気のなさだった。どうした? と松江君が聴いても曖昧に受け流すだけだった。あまりにも心配だったので、今の時間に聴き出すことにした。
「どうしたの? あんな顔されて帰ってきたらみんな驚くよ」
「断ってきた」
「え? なにを?」
あたしがそう言うと、権弘は俯いて続ける。
「加治屋の言葉、聴かないできた」
「はぁ? どういうこと?」
権弘は、複雑な顔をして俯く。あたしは、権弘の行動がもどかしかった。
「なんで、聴かなかったの?」
さらに質問を重ねる。
権弘は無言で夕日を眺めた。そして、ため息を一つ漏らして、口を開く。
「加治屋が俺に告白するとき、どうしてもユウカのことが頭から離れなかった。朝一で、ユウカから加治屋に対する思いを聴いたのに、俺はほっとける性格じゃなかったからさ。思わず、加治屋に頼み込んだんだよ。ユウカを幸せにしてくれって」
権弘はそう言って苦笑を浮かべ、暗い顔をする。こんな弱気な権弘は始めて見た。いつもは「何とかなる」って言って子供みたいな笑顔を浮かべてあたしを元気付けてくれるのだけど今日ばかりはどうも違うらしい。
そして、加治屋に複雑な顔をされてさ。自分が本当に何がしたいのかわからなくなった。もう気持ちが爆発して、気付いたら加治屋を抱いていた」
権弘がそう言うと、私の心のどこかがギュウっと閉まる。気持ちがもどかしくなる。
「加治屋が何も抵抗しなかったから、俺は余計怖かった。加治屋を解放すると、また加治屋はニコって笑ってくれるんだよ……。そして、加治屋はユウカのところに行くって言って、部屋を出た。もう、どうしていいかわからなくなって座り込んだ」
権弘は淡々と、状況を語ってくれている。けれど、目には涙を浮かべている。あの権弘があたしの横で泣きそうだ。
「座り込んだら、体に力が入らなくてさ。立てなくなって。それで俯いてたら、加治屋が声をかけてくれた。そしたら加治屋が戻ってきて。加治屋が俺に……」
権弘はそう言って頬を赤く染める。そして、恥ずかしそうに顔を隠した。
「俺にどうしたの?」
あたしは、権弘が言ったことを復唱して、質問を投げかける。
「俺なんかに、キスしてくれたんだよ……」
権弘はそう言って、涙を零した。権弘は涙を流しながら、にへらと笑う。
「変な話でさ。好きなのに……。加治屋のことが好きなのに……。怖いんだよなぁ」
にへらと笑った権弘の顔は、見る見るうちに泣き顔になり、とうとう嗚咽し始めた。こんな権弘の対処法はわからなくて。あたしまで泣きそうになってきた。
すると、西のほうからドスドスと音がした。誰かが走ってくる音だ。その音は、あたしたちの近くで止まる。嗚咽していた権弘が顔を上げて、涙を拭い、西を見る。あたしも権弘に習い、西を見る。そこには、肩で息をしている鹿野君と渚が居た。
*
さすがに走ると暑い。初夏の夕方でもこんな気温か。やっぱり海だから気温が高いのかな? そんなことを思っていると余計額から汗がにじみ出てくる。にじみ出てくるのは汗だけではなく、心からエノヒロへの言いたいこともにじみ出てくる。
加治屋さんの手を握っていた右手も汗でびっしょりだ。加治屋さん、気持ち悪くなかったかな? そう思って加治屋さんを見ると、加治屋さんも肩で息をしていた。いきなり走らせて悪かったなぁ。でも、これは彼女に関係があることだから、僕は賢明な判断をしたほうだと思う。
「大丈夫? そんなに息切れして」
大杉さんが僕と加治屋さんを心配するような目で言う。彼女の目には、微量の涙が溜まっている。エノヒロと二人と言うことだから、大体理由は予想がつく。まぁ、今はそんなことどうでもいい。
「エノヒロ」
僕はカラカラの喉で枯れそうな声を出して言った。
「なに?」
エノヒロも涙を流していた。相当泣いていたのか、目が少し腫れ上がっている。そんなエノヒロを見ると、余計僕の憤りは激しく滾る。
「加治屋さんから聴いたよ……。今日のことは」
息切れが激しくて、日本語が少しおかしくなる。僕がそう言うと、エノヒロは「あぁ。そうか」と頷く。また、憤りがグラッと滾る。
「でも、エノヒロはそれでいいのか?」
ありったけの想いをエノヒロにぶつける。エノヒロは驚いた顔をしている。状況が把握できていないようだ。
「自分が不幸せでも、他人を幸せにしたいのか?」
「俺は……。ユウカが幸せならそれでいいよ」
エノヒロは、消え入りそうな声で言う。
「それってさ。自分の前にある困難から逃げているだけじゃないの?」
僕がそう言うと、エノヒロは目線を海に落とす。でも、僕はお構いなしに続けた。
「実際問題さ! エノヒロは逃げてるんだよ。加治屋さんのことを好きっていう現実から。目を逸らしてんだよ。それでいいのかよ!」
僕がそう言って静かにエノヒロへ投げかけると、エノヒロは振り返った。
「さっきも言ったけど、俺はユウカが幸せだったらいいんだよ」
「それは! 逃げるための言い訳なんだよ!」
否定するように、静かな態度でエノヒロに言う。
「エノヒロは、今の状態が僕の幸せって言った。でも、現状はこうだ。僕は幸せにもなっていない」
僕がここまで言い切ると、エノヒロは涙を零している。
「他人の幸せを理由に、自分の幸せを犠牲にするなよ……。僕が不幸になる理由がそれなんだよ……。友達が犠牲になる姿なんて見たくないんだよ……。好きなら好きだ! って言えよ。自分の想いを殺すなよ……」
気付くと僕も涙を流していた。エノヒロを見ると声を殺しながら泣いていた。
「自分に正直になれよ……。偽善者」
僕はそう言ってエノヒロの頭をクシャクシャに撫でた。横に居た大杉さんと加治屋さんは、呆然と僕たちの光景を眺めていた。
*
しばらくして、権弘が渚の手を握ってどこかへ行ってしまった。鹿野君はあたしの横に座り「ごめんね……」と涙と言葉を零しただけだった。
「大杉さんがエノヒロのことを好きだって知ってたのに……。僕はどうしてもあんなこと言ってしまった。ごめん……」
鹿野君はそう言って口を膝と膝の隙間に埋める。
「いいよ。こんな結末は予想してなかったけど、権弘と渚が引っ付くのは目に見えてたことだから」
あたしはそう言って笑う。自分でもわかってしまった。今うまく笑えてなかった。どうしても笑顔が引きつってしまう。そんなあたしを見て、鹿野君は心配したような顔で口を開く。
「無理に笑わなくていいよ。大杉さんは少し気張りすぎだよ」
鹿野君の言葉を合図に、あたしのどこかにあった糸がプツンと切れる音がした。たぶんそれは緊張の糸だ。その音がすると、あたしの目から涙がボロボロと出てくる。ずっと我慢していたものだ。勢いよく出てきた。思わず声を上げて泣いてしまった。
涙がボロボロと零れて、あたしの足元の砂は湿り気が増していた。
そんなあたしを、鹿野君は優しく撫でる。
「気張ってばっかりだと辛いし空回りしがちで。何より、自分が一番きつくなる。たまには吐き出してガス抜きしないと。そんなときは僕に話していいから」
鹿野君は、優しくあたしに言いながら頭を撫で続けた。
海が海に照らされて綺麗な、臨海学校最終日だった。
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