第四章 始まりの場所 パート5
そろそろ、到着する時間だな。
レンは不意にそれまで読み込んでいた冊子から視線を上げてカフェの壁に吊るされている時計を視界に納めるとそのように考えた。時刻は二時少し前を示している。そろそろ向かわなければ、とレンは考え、冷め切ったコーヒーの残りを一気に飲み干した。ブラックコーヒーの苦味がレンの口内に広がる。甘いわけがない、とレンは考えた。僕はこれからリンを戦場に送り込まなければならない。できることなら、かつてのようにリンを守るべく剣を取りたい。だけど、僕にはその権利も資格もない。これからの彼女の未来は自身の力で切り開いていかなければならない。だけど、僅かな手助けをしてあげることはできる。僕からの手助けをどう使うかはすべて彼女自身が決めること。それが彼女の人生なのだから。
レンはそう考えると、空になったコーヒーカップを片手に立ち上がった。カフェの出口へと向かう途中にある返却台にコーヒーカップを戻してから、レンは真夏の日差しが溢れる札幌の街へとその身を移した。この暑さもあと数週間だな、となんとなく考えたレンは少し足早に大通公園へと向かって歩き出す。駅前通りを北上しながら大手ディスカウントショップの脇を通り過ぎ、有名百貨店の脇を歩くこと数分で、レンは約束した交差点に到達した。その視界の先に映った、黄金の髪を持つ二人の少女に向かって僅かに瞳を細めながら。
素敵な公園ね。
大通公園を寺本に先導される形で歩きながら、リンは感心したようにそう考えた。街の中心部を東西に走る大きな公園は区画ごとに意匠を凝らした造詣が成されている。乾燥する札幌の夏場には大通公園の至る所に設置されている噴水の水気が心地いい。ふんだんに溢れ出す水音を耳に収めているだけでも涼感を味わえる代物であった。それだけではない。瞳を楽しませる為か、花壇には季節の花がこれでもかとばかりに植えられていた。視界の先に見える赤いタワーは一体何の目的で立てられたのだろうか。透き通るような青い空に、その赤い尖塔は嫌らしくない程度に景色に馴染んでいる。
「まだ、鏡は来ていないみたいだな。」
寺本が不意に足を止め、呟く様にそう言ったのはリンがぼんやりと足元の花壇に植えられた花弁を眺めていた時であった。その声に反応してリンも、そしてリンの隣を歩くリーンも足を止める。みのりが鏡の姿が見えないか確かめるように周囲を見渡し始めた。その動作につられるようにリンは顔を上げて視界を遠方へと飛ばした。右手の方向になんとなく視界を送る。東京ほどではないが、それでもお城かと思わせるような巨大な建物が立ち並ぶその場所に。
彼がいた。
「レン!」
思わず叫ぶ。その声にリーンが、みのりが、そして最後に寺本が視線を集中させた。交差点をゆったりと歩く一人の青年。少し大人になったのかな。リンは平静を保とうとしてそれだけを考えたが、耐えることができなかった。レンもまたリンに向かって優しく笑いかける。見慣れた執事服でも、血生臭い軍服でもない。この日本という国に於いてはどこにでもいるような、寺本と良く似た服装をしているけれど、リンには分かった。レン。あたしのレン。あたしの召使で、命の恩人で、唯一の血を分けた兄で、そしてなにより、あたしが唯一愛した男性。
気付けば駆け出していた。レンに向かって、一直線に。周囲の人間が何事かと振り向いた。だが、その視線すら気にならなかった。レンが嬉しそうに微笑む。何年ぶりだろう。レンの素直な笑顔。四年ぶりかな。あの時、貴方が最期に見せてくれた表情。それは優しくて力強い、笑顔。
「レン!」
もう一度叫んで、リンはレンの胸に飛び込んだ。そのリンをレンが優しく抱きとめる。昔はあたしと背丈が変わらなかったのに。今はあたしの身長なんて、レンの胸元くらいしかない。いつの間にか、大人になっていたんだね。
「レン、レン、逢いたかった、逢いたかったよぉ・・。」
レンの胸元でリンはただひたすら泣きじゃくった。まるで幼い子供のように。リンの身体が優しく包まれた。レンの体温。レンの香り。何もかも、あたしが欲しかったもの。あたしが求めてやまなかったもの。あたしの願い。小瓶に包んで流した願い。やっと、叶った。あたし、今、レンと一緒にいる。
「俺もずっと、逢いたかった。」
レンがそう言った。昔のような敬語ではなくても、レンが本心からそう言っていることはすぐに分かった。嬉しい、と思ってそう言いたかったのに、声にならなかった。伝えたいことは沢山あるのに。話したいことも沢山あるのに。この四年間、リンがどうやって過ごしてきたのか。そして、レンに対してどれほどの感謝をしているのか。その思いを伝えたいのに、どうしても言葉が出てこなかった。代わりに溢れるのは涙と嗚咽。
「寺本君、ありがとうございました。」
あたしを抱き締めたままで、レンはそう言った。
「約束だからな。」
寺本がそう言った。
「みのりさんも。」
「あたしは殆ど何もしていないわ。」
謙遜するような口調でみのりはそう言った。続けて、レンは視線をリーンに向けて、そしてこう言った。
「リーン。本当にありがとう。今まで苦労したでしょう。」
そう問いかけられて、リーンは僅かのばかり思考を巡らせた。このレンは、あのレンなのか。リーンはそう考えながら、レンに向かってこう言った。
「あなたは、リンの召使だったレンなの?」
「間違いありません。」
「どうしてこの世界に?」
続けて、リーンはそう尋ねた。その問いに対してレンは僅かに困惑したように眉をひそめると、僅かの間をおいてこう答えた。
「僕にも分かりません。リーンが疑問に思う通り、僕はあの時確かに処刑された。或いは天の意思でも働いたのかも知れません。」
「なら、天の意思は続いているのかも知れないわ。」
リーンはそう答えた。レンの反乱。死んだはずのレンが反乱を起こすには、この世界から過去のミルドガルドへとレンを連れ帰る以外の方法がないはず。一体どのようにして日本というこの世界からミルドガルドへと戻るのかは想像も出来なかったが、そうでもしなければミルドガルドの歴史が根底から崩れ去ることになる。そう考えてリーンは言葉を続けた。
「あたしたちと一緒に、ミルドガルドに来てくれるのでしょう?」
だが、リーンの言葉に対して、レンは寂しげに首を振ると、静かな声でこう言った。
「僕はミルドガルドには戻れません。」
その言葉に一番に反応したのはリンだった。
「来て・・くれないの・・?」
むずがるようにレンの胸元から顔を離したリンが、レンの表情を伺うように見上げながらそう言った。レンがミルドガルドに来てくれない。どうして。昔のように、レンと一緒に幸せに暮らしたい。それだけがあたしの望みなのに。
「僕は行けない。だから、リンに未来のミルドガルドを背負って欲しい。」
もう一度、涙が溢れた。ようやく逢えたのに。ずっと長い旅をして、ようやくレンに逢えたのに。また、離れ離れになるのだろうか。
「嫌だよ・・。」
リンは僅かに抵抗を示すように身体を少し身じろぎさせた。そのリンの髪を、レンが優しく撫でる。素直に撫でられながら、リンは僅かに視線を落とした。
「リン。」
レンが力強くそう言った。その言葉に、リンは僅かに頷く。
「リンが元の世界に戻った後、ミルドガルドは大戦争に巻き込まれる。」
その言葉に、リンは僅かに驚いた様子で瞳を開いた。そのリンに向かって力強く頷いたレンは、声の調子を変えずに緊迫した言葉を続ける。
「残された時間はあと数年だけ。その間に、強くなって欲しい。誰にも負けないくらいに。」
「信じられない・・けど、レンが言うなら、そうする・・。」
今にも消え入りそうな声で、リンはそう言った。そう言いながら、ミルドガルドを発ってきた時の情景をリンは思い返した。アクの襲撃。あの後どうなったのか。誰も死なないでいてくれているのだろうか。ハクは無事だろか。ルカは。メイコは。ウェッジは。皆あの後どうなったのだろうか。無事だろうか。誰も傷ついたり、その命を失ったりしていないだろうか。そう考えたリンの思考を見通したかのように、レンは言葉を紡いだ。
「皆がリンの帰りを待っている。」
「でもあたし、皆の力になれるほど強くない。」
あたしが戻ったところで、皆の力になれるか分からない。あたしはレンと違う。戦う力なんて持っていない。
「大丈夫。リンの力になるものがあるんだ。」
レンが優しくそう言った。そう言いながらレンはリンの身体に回していた手をほどき、そのままの動作で懐に手を差し入れた。その後出てきたものは、黒い布に包まれた手のひらほどの大きさの物体。その物体を差し出しながら、レンは言葉を続けた。
「この世界の強力な武器だ。開いてみて。」
レンの言葉にリンは僅かに頷くと、丁寧な手つきでその包みを解いた。その中から出てきたものは、一つの拳銃。リンの時代の銃に比べると格段に小型で、重量も軽い。リンが不思議そうな表情でその拳銃をやや呆然と眺めていると、リンの隣から拳銃を覗き込んだリーンが思わずと言った様子で声を上げた。
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