43. ハク、新生
昔住んだ森の中に、ハクはひっそりと身を寄せた。
ヨワネの町のほうから、時折騒ぐ声が聞こえてくる。黄の兵が、ヨワネに到達したのだと気づいた。
「……」
ハクは、工芸の町ヨワネの工房に、物心ついたら住んでいた。同年代の子供たちよりもだいぶ早く針を握り、そして森の中に小さな家を与えられて住んだ。
刺繍を覚えた事以外、何一つ良い思い出のない町。何度も死んでしまえと思った、ハクをいじめ抜いた同世代の子供たち。
しかし、響く野太い声のさざめきと、夜になっても灯りの入らない町の姿に、ハクは涙は止まらなかった。
ハクがミクに連れられてこの町を離れて大分経つ。崩れ去った家を前に、ハクは大木のうろに身を寄せてうずくまっていた。
もう、どこにも行くところがない。
体力も精神力も尽きはてたというのに、頬を濡らす涙だけは止まらない。
「なんだか……疲れた」
しかし、死にたいとは思わなかった。自分が今こうして生きているのは、ミク女王とネルが命懸けで助けてくれたおかげだ。
「辛くても、疲れても、私は、死ねない……」
死んで、たまるか。
なけなしの力をはたいて泥にまみれた拳を握り締める。疲れ切ったハクは、這いつくばって闇を手で探る。
「お腹が、すいた……」
ふと、細長い心臓の形の葉をみつけた。
「これ……」
ハクの良く知る植物だ。ハクは飛びつくように地面の根元に爪をたてた。
がりり、とハクの手が泥を引っ掻いて掘る。
「なにか、掘るもの……枝、」
ハクの手が、ちょうど握る大きさの枝をつかむ。思い切り地面に突き立てた。
そのまま、なんども狂ったように突きたてて森の黒い土を掘り進む。手の感覚も無くなり、枝も何度も取り換え、長い長い時間が経った頃、闇の中に白く太い根が見えた。
「! 」
ハクは地面に顔をすりつけて掘った穴に腕を突っ込み、その根を掴んでぼきりと折った。
真白なねばついた断面を見せたそれに、思い切りかじりついた。
「……! 」
じゃりり、と砂をかんだ。同時に、甘い汁気が口の中をいっぱいに満たした。
ひたすらにハクはそれにかじりついた。闇の中で表面の土を払い、真っ白な芋の断面にかじりつき、汚れた手で頬を拭う。そして再び土を払い、かじる。
ハクの命が、ゆっくりと満ちて行った。
真白な芋の名残の粘液だけが、気がつくと手の上で粘っていた。
「……」
ぐっと、先ほどとは違う涙があふれてきた。
「私……」
掘った穴の底に、わずかに芋が残っているのを確認し、ハクはそっと土を埋め戻した。
こうしておけば、芋も来年は再び蔓を出すことができる。
ハクは周囲の落ち葉をかきあつめ、大樹のうろに身を寄せるように潜り込む。
「私……ちゃんと、生きてる」
すぐに睡魔が襲ってきた。そのままハクは眠りに落ちた。
遠くで、黄の兵の声が時折響く。真っ暗な闇に抱かれ、掻きよせた落ち葉にハクの体温がなじんでいく。身を寄せた大樹がハクの悪夢を吸い取ったように、ハクは夢も見ずに眠った。
* *
瞼の上にまぶしさを感じ、ハクはゆっくりと目をあけた。
真白な太陽が、かなたからゆっくりと昇ってくるところだった。
「……どれくらい、眠っていたんだろう」
首を動かすとぎしりときしんだ。ゆっくりと身を起こす。
「あ痛っ! 」
頭をぶつけ、自分が木のうろで眠っていたことを思い出す。今度は注意深く身を起こし、うろからそっと這い出した。
朝の森の匂いが、あたり一面に立ち込めていた。夜露に湿った枯れ葉が朝日に乾いていく匂いである。
「う……ん」
ハクが体を伸ばして立ちあがると、昇ってきた太陽がついに全貌を現し、ハクの全身を正面から容赦なく光で洗った。
「……すごく、汚いな、私」
ハクの口元がわずかにゆるむ。そうだ。王宮から逃げ続け、ヨワネの町からも逃げ、ここへたどりついたのだ。
手がちりちりとかゆみを訴えていた。
「……せめて手だけでも洗っておこう」
ハクは森の中へおりていく。少し谷になっている地形に、水がたまっていた。
真黒な落ち葉が底に沈んでいるが、その水は思いのほか澄んでいる。
金色の羽をかがやかせて、ちいさな虫たちが踊るように飛んでいた。
ハクはその虫たちを押しのけて、水たまりに手をつけた。
「……えい」
両手をこすって洗い、腕まで汚れた泥を落とした。爪に入り込んだ土を掻き取ったあと、思いきって掬った水を顔にたたきつけた。
「意外と、気持ちいい」
飲むことはできないが、顔を洗うことはできる。そのうちに髪を洗いたい衝動に駆られた。思いきって結んでいた長い髪をおろした。そっと水に頭を浸すと、黒い水たまりのなかに、ふわりとハクの髪が広がった。
「や、冷たい」
手で梳くと、髪の中に噛んでしまっていた砂が、水の中に落ちていく。
明るくなっていく森の外から、光が筋となって差し込んでくる。ハクの髪が銀色に輝き、金色の虫たちが周りで踊っていた。
大樹のある場所に戻り、町の騒ぎが静まっているのを確認した。
「黄の軍は去ってしまったのだろうな」
町の人は皆死んでいるのだ。ずいぶん楽に食糧や水や、工芸の品も持ち出せたに違いない。
「……食べ物はもうなくても、水はあるだろう」
いくら黄の軍が大勢押し寄せたとしても、森を背後に抱えたヨワネの井戸は飲み干すことなど出来ないだろう。
ヨワネの町の名前の由来は、『森を流れるかそけき水の音』。
町の地下を、森からの水が静かに流れているのだ。
「……教会の井戸が、一番ここから近いかな」
目が覚めて太陽に照らされると、急激に喉が渇いてきた。
ハクは教会へと向かった。
少しは荒らされているだろうと思った教会は、少しも変わらずにハクを迎え入れた。
変わったのは、神父がすでに居ないことである。森に家を作ってくれた、ハクの数少ない相談相手だった彼も死んでしまったのだろうか。
自分の工房での出来事を思い出し、ハクは長居は止そうと心に決めていた。
「私は、生きなきゃ」
工房主に鎌を向けられた時のように、再び殺されかかってはたまらない。
まるでいじめられていた時のようにあたりをびくびくと警戒しながら、ハクは教会の井戸へ駆けより、水をくみ上げる。
行儀が悪いと知りつつも、桶に両手を突っ込み水を貪り飲んだ。
ふと、腰に下げた短剣を思い出した。
「……ミクさま」
そっと鞘から抜いてみた。ネルとハクが襲われた村で、村人の攻撃を一度だけ止めた部分の刃が、わずかに欠けていた。
自分の服の、汚れの少ない部分を使って、丁寧に、ハクは刃についた汚れを落としていく。
ふと、思いついたことがあった。ミクの短剣をきれいに洗ったのち、ハクは教会の礼拝堂の扉を開いた。
祭壇の上の色ガラスの窓から、虹色の光が床に落ちる。
長い年月の間になんども人が訪れ、ニスが何度も塗りなおされた床が、七色の光を映していた。
「……神様」
ハクはまっすぐに祭壇に向き合った。
「私をどうか、生かしてください」
ハクはミクの短剣をすらりと抜き、その首の高さまで掲げた。
そして、一気に引ききった。
ハクの背から、長い白の髪が滑り落ちた。
「……ふう」
軽くなった頭を振ると、うなじのあたりで切りそろえられた短い髪が顔の横で空気と光をはらんで揺れた。
と、がたん、と背後で音がした。
「!」
ハクがふりむくと、並んだ礼拝用の椅子の向こう、懺悔室のとびらの前に、小さな女の子が立っていた。
歳のころは7つか8つか。じっとハクを見つめている。
ハクはびくりとあとずさった。ハクは、子供が苦手であった。子供の年代にいじめられたハクにとっては、その年代の子供は、本能的に恐ろしかった。
……変な髪!
……へんな色!
よみがえった記憶に体と顔をこわばらせ、一歩後ずさったハクの前で、その子はゆっくりと口を開いた。
「……天使、さま? 」
何を言われたのか解らずに、ハクは止まる。
「こわがらないで! 天使さま! 」
その子は、だっとハクに向かって走った。そして逃げ腰になっていたハクのすそをしっかりと捕まえた。
「……きれいな羽、きっちゃったのね?」
ハクの足元に、切ったばかりの長い髪が、色ガラスの光を受けてきらきらと輝いていた。
「……天使……? って、私? 」
女の子は、大きくうなずいた。
「羽って、これ? 」
ハクが床に落ちた髪をさすと、女の子はにっこりとうなずいた。
「あたし、みたよ。天使さまが羽を、切っちゃうところ」
ハクの紅い瞳が見開かれた。
「……あたしたちを、たすけにきてくれたのね? 」
そのとたん、ハクの目からどっと涙があふれた。
「天使さま? 」
ハクの泥まみれの裾を、その子はしっかりと掴んで離さない。
「天使様! 」
「天使さま! 」
ハクが思わず顔を上げると、懺悔室のなかから、さらに子供がわらわらと飛び出してきた。8歳から12歳程度の、幼い子供たちだ。
みな埃にまみれて汚れている。
「……神父さまが隠れていなさいって! 」
「知っている人が声をかけても、お父さんやお母さんや家族でも、ぜったい、見つかったらだめだって! 」
「怖かったよう……! 」
子供たちがどっとハクを取り巻き、抱きつく。
ハクの目から涙が溢れていく。ふるえる手をそっと伸ばし、すがりついた一人を抱きしめた。
すると、その子がハクをぎゅっと抱き返してきた。
「……! 」
ひとは。
こんなに温かいものだったのだろうか。
「……泣かないで。天使様 」
子供たちが、泣かないで、泣かないで、とハクにすがりついた。
……涙は。
……こんなに、甘いものだったのか。
ひとつ、ハクを苦しめ縛りつけたヨワネの過去が、するりとほどけて七色の光に溶けた瞬間だった。
つづく!
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