ハクはあの後、集中治療室に運ばれていった。
デルはさっきから何度も何度も時計を確認しては、焦燥感のようなものに襲われ、頭を掻いていた。
ベッドの脇に置いてある白い時計は、カチカチと無機質な機械音を奏でながら、秒針を動かし続けている。
もう、1時間経っていた。
何もしない1時間というのはやけに長く感じる。
そしてそれから更に30分も経つ頃には、デルの足は自然と集中治療室の方へと歩きだしていた。
集中治療室の入り口は、ゆうに大人三人が並んで入れるような大きさで、頭上のランプには、
『使用中』
と書かれた赤い光が灯っている。
ハクはまだこの中で治療を受けている最中なのだ。
この扉の向こうで何が行われているのか、想像したくはなかった。
デルはまた、頭を掻きながら心の中で強く念じる。
頼むから、早く出て来てくれ。
でないと、この言いようのない恐怖と焦燥に押しつぶされてしまいそうなんだ。
そう念じた途端、何だか虚しい感情が胸の中に込み上げてくる。
昔の自分は、ハクがこんなになってしまうなんて予想していなかったから。
――未来は誰にだって分からない。どうなるのかなんて、その時になってみなくては分からない。
言わば、真っ暗な夜の道を歩いているようなものだ。
前を見渡す事が出来なければ、恐怖で歩けるはずもない。けれど、それでも人々は歩いて行く。
そして理不尽にも、来た道を戻る事は出来ない。
思い返す事こそ出来ても、実際は戻れない。
まさに人生ってのはそういう事だ。まるで将棋の歩兵みたいなもの。
ただ地味に一歩一歩、――それも前だけにしか、進めない存在なんだ。
なんて、人生について昔誰かが語っていたのを見た。
その時は俺はまだ幼くて経験も足りなかったから、意味なんて考えたことなかったし、分からなかった。
あの人生論は一体誰が語ってたんだったか。どこで見聞きしたんだったか。
当時は特に大した事でもないと思ってたから、そんなこと、もう忘れてしまった。
「とりあえず……なんか飲んで落ち着こう」
そうして、ロビーへ向かおうと踵を返した矢先に、治療室の扉が開いた。
台車と、何人かの看護師とカイト医師がその扉から出てくる。
デルは、目を見張った。
台車の上にはハクが寝ているが、何だか……生きている感じがしない、覇気が感じられない。
本当に死んでいるかのようだった……まさか。
「大丈夫です、麻酔が効いているだけですよ、デルさん」
心の中の声が聞こえたのか、それとも表情に表れていたのか分からないが、中から出てきたカイトはそう言った。
安心させようと思ったのか、声が柔らかい。けれどその顔はやはり張り詰めている。
「発作はなんとか落ち着きましたが、これで命が延びたと言うわけでもありません。そこはどうかご了承を」
「いえ……、ハクを助けていただいて、ありがとうございます」
デルは礼をすると、急いでハクの病室へと戻る。
運び込まれたハクはまだぐったりしていて、ベッドに寝かされてもやはり目覚めなかった。
わずかに聞こえる吐息がなければもう死んでしまっているのではないかと錯覚してしまいそうなほどだった。
「ハク……俺、お前の為に一体何が出来るんだ……?」
眠っているハクに、語りかけるように呟く。
むろん聞こえてはいないから、単なる独り言にすぎないが。
「お前の為にさ、一つだけでも、何か出来ることがあればいいのに……」
そうつぶやいた時、ふと思い出す。
ハクはさっき言っていた。
雪が見たいと。せめて死ぬ時までにはもう一度。
ハク、それが、お前の願いなのか。
さっきは自信満々に「必ず生きていられるうちに見られる」なんて言ってしまったが、実際それはもう無理かもしれない。
ハクの命は今月一杯。今月中に雪が降らなければ、もうそれで終わりという事。
そして……今はもう三月だった。
三月に、雪が降るんだろうか?
……愚問だった。
寒い地方ならあり得るかもしれないが、ここはそんなに寒いところじゃない。
それに今年の春は早いらしく、暖かい陽気がこのところずっと続いていた。
そんな三月に、雪が降るなんて言う方がまさに荒唐無稽というものだ。
デルは何気なしに窓から外を眺める。
外はさっき見た景色と、全く変わらない。街のネオン、夜空に浮かぶ月。
強いて変わったことと言えば、月の位置が少しずれた事だろうか。
到底、雪は降りそうになかった。
それでも、そんな現実は認めたくなかった。
「ハク、雪、降るかもしれねえぞ?」
外を見たまま呟く。
あぁ、今夜は月が欠けすぎてるな。歪な三日月だな……。こりゃ明日か明後日には新月だろうな。
そんな事を考えていると、
「降ると……いいよね」
予想外にも、ベッドの方からハクの声が聞こえた。
不意を突かれ、驚いてベッドの方を見る。
そこで、ベッドに横になったハクが、微笑んでいた。
「聞こえてたのか?」
「うん……。雪、降るといいよね」
「あぁ……きっと降るさ。いや、間違いなく」
「そうかな?」
「ああ、信じろ。外れてたらミルクチョコレート1ダース程おごってやる」
「その自信は一体どこから来るのよ、根拠もないのに」
それは確かに図星だった。
痛いところを突かれ、一瞬言葉に詰まりそうになったが、笑って言葉を続ける。
「根拠?あぁ、確かにないけどさ、そう言う時は己の自信に頼るんだよ。それしかないだろ?」
「無茶苦茶だよ」
「無茶苦茶じゃねえよ。失敗とか絶望するのは誰だって怖いさ、足だってすくむさ、けど何事もまずは希望とか自信を持たなきゃ成功しないぜ?どんな小さなことだってそうだ」
「あはは、デルらしいね。そういう熱血なとこ」
そんな感じで、他愛もない会話を多分10分くらい続けていた。
けれど、他愛もない会話でさえ、今は何にも代えがたい貴重なものに思えた。
「じゃ……そろそろ帰るわ。身体に障るから、早く寝ろよ」
「分かってる。もー、子供じゃないんだから」
本当はもう少し話をしていたかった。しかし無理をさせるわけにはいかない。
名残惜しかったが、デルは病室のドアを開けて外に出る。
ドアを閉める直前、ハクと目が合う。
こちらが微笑むと、向こうも笑みを返す。首をかしげて、柔らかいお日さまの光みたいな感じで。
ハクは今この瞬間、確かに生きている。
この笑顔が、明日にはもう見られないんじゃないか。
一瞬、最悪で黒い思考が頭をよぎるが、それを思い切り振り払って、デルはドアを閉めた。
***
ドアが閉まった途端、顔の笑みが徐々に消えていく。
そして、ハクは溜息をついた。
まくらの下に隠していた、白い小さい封筒を取り出す。
宛て名も差し出し人も書いてはいないが、ただ「一番、大切な人へ」とだけボールペンで書かれていた。
自分で書いておいて何だけれど、その文字を見るたびに胸がキュンと痛む。
手紙は書いた。何時間も内容を考えて、下書きだって何枚も書いて。
封だってした。それはもう丹念すぎるくらいに。
あとはそれを渡せばいいだけ。なのだけれど。
どうしても、渡すタイミングがつかめなかった。
現に今だってそう。
自分は本当に臆病者だ。
もうすぐ、この場所から居なくなってしまうかもしれないのに、二度と話す事さえ出来なくなるかもしれないのに、それでも渡す事をためらってしまうなんて。
どうして。
どうして……。
今日もまた、後悔していた。
そして、涙が頬を伝っていた。自分でも、気が付かないうちに。
やがて、自分が泣いているのだと気付いた時には、小さく嗚咽を漏らしていた。
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