第二章 ルーシア遠征 パート15

 「イングーシめ、我らをあくまでも愚弄するか!」
 カイト皇帝の怒声が王都・・いや、既に旧王都となったルーシア王宮の一室で鳴り響いたのは七月二十五日午後の出来事であった。ルーシア王国による遷都宣言を受け、普段は冷静を保つカイト皇帝ですらも平静を保つことが出来なかったのである。
 現在、カイト皇帝以下の主要諸侯は本来ルーシア王国の謁見室に当てられていたはずの大広間で緊急の軍議を開催しているところであった。諸侯を代表して遷都宣言を読み上げたオズイン将軍はその怒声に僅かに肩をすくめると、カイト皇帝と同様に怒りに満ちた声でこう言った。
 「こうなれば、地獄の果てまでイングーシを追い詰める他はございません。」
 その意見に対して、冷静に反論した人物がいる。諸侯の中で最も慎重派と呼ばれる将軍、ファーレンであった。
 「皇帝陛下、恐れながら申し上げます。」
 深い礼を行いながらそう前置きをしたファーレンは、次に面を上げるとはっきりとした口調でこう言った。
 「これまでの進撃に加えて、先日の大火災により兵の士気はこれ以上見かねるほどに低下しております。これ以上イングーシの挑発に乗ることなく、ここは一度遠征を中止し、再度準備を整えた上で侵攻するべきではないかと。」
 ファーレンは自身の立場を良く理解していた。ともすれば若く、暴走しがちであるカイト皇帝を諌める立場にいる唯一の人物であると十二分に自覚していたのである。そしてその諫言はカイト皇帝としても必要としているところではあった。だが、この時ばかりはカイト皇帝は目に分かるように不機嫌そうに眉を潜めると、ファーレンに向かってこう切り返した。
 「ここで撤退すれば、奴らは戦に勝利したと勘違いし、益々その権威を増長させることになるだろう。未だに兵力では我らが優勢にある。この場で叩いておかなければ後々帝国にとっての脅威となりかねん。この機会に叩いておくべきである!」
 「恐れながら。」
 口角泡を飛ばさんばかりに、一気にそう述べたカイト皇帝に対して、ホルス将軍がファーレンを援護するように口を開いた。
 「王都を自ら燃やし尽くしたルーシア王国はその復興に数年の時を必要とすることになるでしょう。我らが一度撤退し、兵を休ませた上で再び侵攻したとしても我らの優位になんら変わりはございません。」
 ファーレンに続き、ホルスすらもこれ以上の進軍に反対したことにカイト皇帝は益々不機嫌となるように口元を歪めた。その様子を隣の座席から眺めていたアクは、今のカイトに冷静な判断を生み出すことは出来ないだろう、と考えた。或いは、これはカイトにとって唯一の欠点かもしれない。何しろ、カイトは今まで直接対決における戦争において負けたことが無かったのだから。
 「ならん!」
 カイトは続けて、益々怒気が抑えきれぬという様子でそう叫んだ。その様子を、アクはやはり、と考えながら冷静に観察する。カイトは敗北に慣れてはいない。
 「ここの段階での撤退はない!幸いまだ夏場である。今から北東へと軍を向け、イングーシを捕らえてから帰国したとしても冬までには十分に間に合う。ここで撤退すれば、奴らを降伏させる機会を一年以上も失うことになる。撤退はあり得ぬ!」
 これまで敗北を経験したことが無いカイトにとって、戦に負けるということは自身の命を失うほどに耐え難い事態であるのだろう。なら、私は?
 「カイト皇帝のおっしゃる通りでございます。しかも、現状のままではただ無為な遠征を行ったという結果しか残りませぬ。本来は近オリエントを支配下に置き、そこから見込める貿易収益をミルドガルド帝国により独占することが目的であったはず。その目的が果たされるまで、この遠征は終結致しませぬ。」
 カイトに続けて、オズインが改めて賛同を示すようにそう言った。現状、カイトとオズインが進軍推進派、対してホルスとファーレンが慎重派と言ったところだろうか。一応の発言権が認められている人物で、残されている者は私一人だけ。といっても、私は今まで軍議の席で一度も意見を述べたことは無かったけれど。
 会議は紛糾を始めつつあった。最後にはおそらく、カイトの鶴の一声で方針を決定するのだろうが、あくまで進軍に反対するホルスとファーレンを説得しない限り物事を進めるつもりはカイトにはないらしい。身を焼かれるような怒りを感じている中でもその態度は、あくまで普段のカイトそのままの姿であった。
 「皇妃、お前はどう思う?」
 全くの平行線を辿った軍議が開始されて小一時間が経過した頃、カイト皇帝は助けを求めるようにアクに向かってそう訊ねた。カイトがこのようにアクに助言を求めるのはこれが初めてのことであった。この軍議でここまで紛糾することになるとは、カイト皇帝であっても予想外の事態であったのだろう。カイトのその態度に、アクもまた驚いた様子で瞳を瞬きさせる。
 「聴いているだけではつまらぬだろう。お前の考えも聞きたい。」
 カイトは更に、アクに向かって言葉を続けた。その言葉に、アクは神妙な表情で頷く。
 私は、どうしたいのだろう。
 先程からずっと考えていた思索をもう一度、繰り返す。本心を隠すことなく伝えるのなら、今すぐにでも兵を纏めてミルドガルドへと帰国したい。帰国して、バラートが用意する、可愛らしく美しいドレスに身を包み、ジョゼフが丹精込めて淹れる紅茶を心の底から堪能したい。戦に生きる戦士としてではなく、一人の女性としての生活を取り戻したい。だけど。それはカイトが望んでいることではない。それもまた、明白。なら、私は。一人の女性としてではなく、ミルドガルド皇帝の皇妃として、いや、カイトの妻としてどのような選択を求められているのだろうか。
 分かりきっている、とアクは考えた。以前のアクならば・・リンと出会う以前のアクならば、素直に、そして何も考えることなくこう言っていたはずだ。「カイトに従う」と。そして、カイトに従うことが自分の全てであると考えていた。例え、皇妃という立場が無かったとしても。一人の戦士としての思考しか持ち合わせることが無かったはずだ。その方が楽だったのかも知れない。この様に悩み、決断に迷うことは無かったかも知れない。しかし、その私を指して、彼女は・・リンはこう言った。『可哀そう』、と。その理由が今となれば良く理解できる。私は今まで、自分の意思で行動したことが無かった。それはとても平坦で、そして楽な生き方だった。だけど、今は違う。自分の意思で行動を始めた私がいる。それは時に苦しい。全ての事象に関して、自らの力で思考し、決断を出さなければならないのだから。だけど。だからこそ、幸せだった。私が本当に求めていたものは戦ではなく、平穏。そう、何事も無い、時に欠伸が出るほど平穏な日常。
 でも、今は。アクは決意を固めるように口を真一文字に結び、諸侯の顔を見渡した。誰もが自身の意見に同意してくれることを願っている。そんな表情だった。ホルスとファーレンは訴えかけるような瞳をしながらアクを見つめていた。私も今は貴方たちと同じ気持ち。でも、でも。
 オズインが熱意を込めた瞳でアクを見つめていた。そして、カイトは。
 当然、自身の意見に賛同するものと考えているのだろう。もし、ここで私がカイトに反対を表明したら、彼はどんな顔をするのだろうか。きっと、戦に負けるよりも悲しそうな・・そう、捨てられた子犬のような表情をするのではないだろうか。カイトは戦でしかその人生を見出すことはできない。それは誰のせいでもない。それはカイトが天から受けた宿命なのだから。そして私は、耐えられない。たとえ自分の幸福を投げ捨てることになったとしても、カイトに逆らうことなど、できはしない。カイトが悲しむ顔は、もう絶対に、見たくないから。あの時のように。前国王の暗殺をカイトが決意した時のように。あの時のような、悲しげな表情はもう二度と、見たくない。
 「私は、皇帝に従う。」
 全員に向かってはっきりと、アクはそう告げた。心の隅で、何かがずきりと鈍く痛んだ。とても大切で、失ってはならないものを失った時のように。だけど。これしか、私が取るべき道は無い。それが、私に与えられた宿命なのだろうから。
 軍議はアクのその一言でほぼ終結を迎えることになった。皇帝夫妻を相手にそれまで強硬に進軍を反対していたホルスとファーレンもとうとう折れ、ルーシア王国新王都サンクブルクへの遠征が正式決定したのである。
 だが、この決定が後に、帝国軍に絶望的な損害を与えることになるとは、その時は誰もが想像していなかったのである。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
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ハーツストーリー 38

みのり「第三十八弾だよ!」
満「とりあえずここまでだな。」
みのり「ということで、実はごめんなさい。」
満「うん。実は、日数計算を間違えた!」
みのり「どういうことかというと・・。」
満「以前にもここで書いたとおり、ルーシア遠征はナポレオンのロシア遠征をモデルにしているんだが・・。」
みのり「ナポレオンのモスクワ入城は実は九月十四日なの。。」
満「うむ。二ヶ月以上も早く目的地に入城させてしまった。。ということで更に北に進軍してもらうことにした。」
みのり「更なる困難が帝国軍を襲うんだけど・・それはまた次回以降をお楽しみに☆ではでは!」

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投稿日:2011/04/12 22:14:51

文字数:3,568文字

カテゴリ:小説

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