0―ⅰ.
十二月二十二日。彼は厚い雨雲の上にいる。彼の目には青空に投影された経線と緯線が映っている。冬至の太陽の縁がまもなく子午線に懸かろうとしている。彼は下を向き、雨雲の中を急降下する。
郊外の二車線道路を小型乗用車が走っている。車は路肩に止まり、運転席から男が出てくる。男は小降りの中、傘を差さずに道を渡る。
急に雨が強くなる。
Ⅰ.
朝から弱い雨が降っていた。
十二月の日曜日。親戚に行くという父につきあって外出し、先方で勧められた昼食を断って家に帰る途中のこと。車を路肩にとめた父は、「ちょっと待ってろ」と言うと、エンジンを掛けたまま道を渡ってタバコを買いに行った。車の時計は十二時二〇分を示していた。
助手席に一人残った僕は、ワイパーがフロントガラスの上を往復するのを眺めていた。
急に雨脚が強くなり、ワイパーは決められた動作を律儀に繰り返すだけの役立たずと化した。
僕は特に訳もなく軽いため息をついた。僕は担任の先生から「君は二学期になってから覇気がないねえ。もう少し元気出していこう」と言われている。確かにその通りで、自覚もある。でも、先生の言うようにはなれないでいた。
そのとき天井を叩く激しい雨音がふいに消え、僕は座標軸が逆数になった世界の水槽に閉じ込められた。
静けさの中で運転席の前の方から微かな音が聞こえてきた。ダッシュボードの上で何かが動いている。よく見ると、それぞれ小さな馬に乗った三匹の白いネズミが、一列になってこちらに向かっていた。
先頭の大きなネズミは何か紋章の描かれた旗を持ち、二番目の少し痩せたネズミは小さな横笛を吹き、三番目の小さなネズミは小太鼓を叩いている。まるで小さなパレードのようだ。
「ああ、ネズミか」
僕はなぜか怖いとも、不思議だとも思わなかった。
ネズミ達は僕の前を通り過ぎると、先頭から順に消えていった。三番目のネズミは消える直前に僕の方を見てニッと笑ったように見えた。
Ⅱ.
「お前はここで何をしている」
いきなり後ろから声を掛けられた。
後部座席を振り向くと、そこには口髭と顎鬚を蓄えた老人が座っていた。短く刈り揃えた金髪、茶色の目。蝶ネクタイを締め、スーツを着ている。そのスーツは少し古いデザインのように思えた。
どこかで見たような人だなあと思っていると、その老人はもう一度、「お前はここで何をしている」と言った。少し声が高かったが、綺麗な日本語のイントネーションだった。
「別に何も。お父さんを待っています」
正直にそう答えると、「そうか。名前は何と言う」と訊ねてくる。
「かがみねれんです。おじいさんは誰ですか」
「私はおとやまかいと。私が誰か知らないのか」
オトヤマカイト? どう見ても欧米人の顔をしているのになぜそんな名前なのだろう。それに『おとやま』というのは母の旧姓と同じだ。
それで思い出した。母の父の父、つまり僕の曾祖父に当たる人はイギリス人で、明治の終わり頃にある財閥会社の技師として日本に来てそのまま帰化したということを聞いたことがある。帰化が先か結婚が先かは知らないけれど、母の実家音山家に婿養子に入ったのだ。
写真も残っているらしいが、まだそれは見たことがない。後部座席に座っている老人は、母方の叔父と雰囲気が似ていた。それにしても、この老人はいつ車の中に入ってきたのだろう。服や頭が濡れている様子もない。
「もしかして、僕の曾おじいさんの親戚の方ですか?」
親戚だとしても同じ苗字のはずはないなあと思いながらそう訊ねた。
「そうではない。私はお前の曽祖父に当たる。もう一つの名はとびおと言う」
とびおというのは曽祖父の日本名である。鳶男と書いたはずだ。でも、曽祖父は戦争が始まる前にフィリピンに出張に行ってマラリアに罹って死んだと聞いているし、毎年夏には墓参りに行っている。もし生きていたとしても百歳をはるかに越えているはずであるが、この老人はそこまで歳をとっているようには見えない。
「僕の曾おじいさんはずっと前に死んでいるんですけど」
「冬至に雨が降ると面白いことが起きる」
老人は僕の言ったことを無視するように話を続けた。
「私の子供は三人だったが、孫は沢山生まれた。曾孫はもっと多い。お前はその曾孫の中で年長だ」
確かに僕は母方の従兄弟の中では一番年上だ。でも、祖父の妹である大叔母さんの孫には僕より年上の人がいる。音山家では三つ年下の従兄弟がいて、それが一番上になる。
「まあ、細かいことは気にするな」
老人は変だなあという顔の僕を見ながらそう言ってウインクをした。
「今この雨の中に一人でいたのはお前だけだったのだ」
「雨がどうしたのですか」
「さっきも言っただろう。雨の冬至には面白いことが起きる」
「面白いことって」
「だから、こんなことだ」
老人は右手の親指で自分を指差した。
「あの、じゃあ」
「そうだ。私はもうとっくに死んでいる。だが、こういう日に幾つかの条件が揃うと誰かに会うことができる。一度だけだがな」
それから老人(もう曽祖父と呼んでいいだろう)は自分が生まれた町のこと、どうやって日本に来たのか、どういう仕事をしていたのか、曾祖母との結婚と帰化のことなどを話してくれた。
一通り話しが終わったので僕のほうから聞いてみた。
「今はどうしているのですか。天国にいるのですか」
「残念だがそれについては話すことはできないのだ」
「じゃあ、なぜ僕に会いに来たのですか」
「うん、それはな。おっと、いかん。もう戻らなくてはいけない」
そう言うと、曽祖父の輪郭がぼやけてきた。
「お前はまだ自分の生まれたこの町しか知らない。だが世界は広い。色々な国に色々な町があり、色々な人が住んでいる。お前はどこにでも行けるし、誰とでも出会える」
既に座っているシートが透けて見えるようになった曽祖父は、僕に手を差し出した。
「これをお前にやろう。私の棺に入っていたものだ」
渡されたそれは小さなメダルで、表面にはさっき先頭のネズミが持っていた旗に描かれたものと同じ凧の紋章が刻まれていた。
「ありがとうございます」
「それからな、ここに来る前にちょっと仕掛けをしておいた」
「何をですか」
「まあ、楽しみに待っていろ。これからもう一つやることもあるしな。ではな」
気が付くと曽祖父はいなくなり、車内は静かになった。ずっと後ろを振り向いていた僕は、助手席で前を向いて座り直した。
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