5.見えない音の世界で

 先日作った曲には、結局歌詞はつけられませんでした。
 とは言うものの、具体的な意味を持つ言葉が使われなかったというだけで、もちろん私の歌声は入っています。マスターは、曲に一番合った私――初音ミクの発声と音を探してそれを伴奏に乗せたのでした。
 きっと初めて耳にした人は驚くでしょう。外国語や、単なる「あー」や「うー」というコーラスではなく、私の声をしたまさに楽器の音色なのですから。
 そう、マスターにとって歌声は楽器と同じなのです。歌詞という言葉による意味ではなく、音の良し悪しやその音がはたす役割を重視し、そこから生まれる曲の世界を大切にしていました。
 それはマスターが弾くピアノの音色からも判ります。
 彼はプロのピアニストではないので、難しい曲を楽譜通りに弾きこなす技術があるわけでも、表現力が飛び抜けているわけでもありません。
 でも、誰にもまねができないくらいきれいな音を出すことにこだわりを持っています。また、弾き間違えてもそれを器用に拾って次の音に自然につなげてしまうのが得意でした。まるでそう弾くことがその曲にとって一番であるというように。
 その二つが合わさってメロディの魅力を引き立てるのです。それは生き物の偶然の動きを見ているような、ひざに抱いた子猫の思いがけない無邪気な姿を目にしたような、もっとながめていたくなる躍動感(やくどうかん)と説得力に満ちあふれていました。
 ピアノの音は言葉を語りませんが、マスターの弾くピアノの音色はその曲が待つ本質を、マスターの解釈で歌っています。弾くたびに少しずつ変わるのは彼が機械ではなく、もっとうつろいやすい「人間」であることの証明でした。
 彼の弾くピアノを聞いた人には、彼がどれほどその曲を愛しているかが判るでしょう。だからこそ彼の弾くピアノは人でない私の、音楽を愛する機械の心をもとらえるに違いありません。
 マスターの作り出す音は、それだけで一つの世界であり、彼自身であり言葉なのです。
 そのため私も彼の作った曲に歌詞が必要だとは思いませんでした。ひたすらマスターの指示通りに発音し、歌っただけです。そしてそれは言葉としては何の意味もないのに、一度聞けば二度と忘れないくらい、それ以上ないぴったりの「詞」なのでした。
 歌が完成すればあとの作業は簡単です。私は楽譜通りに何度でも歌える機械ですから決して歌い間違えることはないし、マスターも曲の本質が変わるような大失敗の演奏はしません。だから録音は一回で終わりました。
 マスターがピアノを弾き、その横で私が歌い、カイトがカメラを回します。その映像と音声に、別に録音した打ちこみによる音をたして調整し編集したあとは、カイトの手でインターネット上に公開されました。
 ですが評判はあまり良くなかったようです。カメラワークが平凡すぎたことや曲名が『オリジナル1』でしかなかったことも原因かもしれませんが、一番不評を買ったのは歌詞がないことでした。
 現代では、多くの人が何に対しても明確な意味を求めます。これはこうだから必要だ、あれはあれそれだから問題なのでやめるべきだ、そういった具合に合理化が進められてきたので、みんなが一目で誰にでも判る意味や意義を探す傾向にありました。
 もちろんそうでない部分、そうでないことに価値を見いだす人もたくさんいるのですが、こと「歌」に関して言えば意思伝達の道具である言葉を使うためか、その内容を問う人が多かったのです。
 どんなに曲が良くても、歌詞が良くなければ評価しないという人もいました。確かに魅力的な音楽に素晴らしい歌詞が乗った歌は、本来その曲が持っている以上の力を備えているのは間違いありません。
 ですが、歌詞の意味だけを重視する人には、いくら名曲であっても意味が判らない外国語の歌は何の価値もないのでしょうか?
 その答えは「ノー」だと私はマスターを見ていて思います。
 もし外国語の曲に美しい映像がついていて、翻訳された歌詞の字幕が表示されていても目の見えないマスターには判りません。それでも曲が気に入れば、マスターは歌詞の意味が判らなくてもそれを好きだと言います。それはきっと、母親の歌う子守唄の意味も知らずに、子供がそれを好きだと感じるのと同じようなものなのです。
 幼い子供は子守唄の歌詞の意味を知りません。それでも母親に歌ってくれとせがむのは、曲の調子や声の高さ、歌い方などが言いようもなく魅力的で、安心して眠れるからでしょう。そしてその歌から伝わってくるのは歌詞にこめられた意味以上の、母親がその子にささげる「想い」なのです。
 マスターの作ろうとしていた曲はそういったものでした。つまり、言葉の意味を超えたところにある音楽です。子守唄に最適な母親の歌声のように、曲にぴったりの音を作りました。眠る子供に歌いかける母親のように、曲に想いをこめました。
 その想いを語るのに言葉は必要ありません。今のマスターはもう、日常生活ですら文字という言葉をほとんど使わなくても支障がないのですから。
 マスターはなくしてしまった声のかわりに私の声を求めましたが、それは想いを言葉として形にするためではなかったのです。ただ歌声という音が、楽器が、自分の作る曲には必要だと感じたからというだけにすぎません。
 それが言葉として意味があろうとなかろうと私には関係のないことです。私は必要とされてここにいる。歌を歌える。それだけで充分なのでした。
 私はそんなマスターの作る曲が好きだったので、他の人に彼の作った曲がほとんど評価されなかったことは、私にとってはとても残念なことです。
 しかし全然人気がなかったというわけではありません。まるであの楽器屋さんの家で見た中庭のような明るさと軽快さのある、言葉遊びのようなへんてこな詞の歌を気に入ってくれる人たちもいました。そんな彼らは何度もくり返し聞いてくれているようです。
 ただ、マスター自身はいい評価も悪い評価もあまり気にしていないようでした。インターネットに公開したあと、評判はどうかと尋ねることさえしなかったのですから。
 リスナーがマスターのプロデューサー名をあれこれ考え出す頃には、彼はすでに次の曲を作り始めていました。
 そんなある夜、マスターが寝たあとに私は雑誌を読んでいるカイトに、
「私、マスターの作る曲もマスターの弾くピアノも好きだな」
 と声をかけました。
 彼は『オリジナル1』を公開した時にカメラワークにけちをつけられたので、次は良くしようと最近はその手の専門誌を見てすごしているのです。
「僕も好きだ。たぶん猫も」
 カイトはひざの上で鼻を抱えて寝ている猫を指さして答えました。
 「猫」というのは別にその子の名前ではありません。私たちは単に猫を猫と呼んでいるだけでした。機械は名前をつけられることはあっても、その逆はしないのです。名前をつけるのは人間だけ。
 ですがマスターはたとえ名前をつけても実際に声に出して呼ぶことはできないので、やはり猫に名前をつけることはしませんでした。
 そして、それで別に何も問題がなかったのです。この家には猫といえば一匹しかいませんから、どの猫のことか判らないということはありえませんし、当の猫も文句一つ言いません。
 名前がないのはかわいそうだと思う人もいますが、私たちは機械なのでそうは思わないし、マスターにとってはせっかく名前をつけても自分では呼んでやれないことの方が気になったようでした。
 そんなわけで猫は私たちの間で猫と呼ばれ、もっぱらカイトになついています。最初に見つけたのは私なのに、ミルクやご飯をくれるカイトを親だと思って慕っているようでした。
 そのことを興味深く思いながら私はカイトの隣に座って猫の背中をなで、
「次の曲はカイトも歌えたらいいね」
 と言いました。
 すると彼は意外にも「僕はいいよ」と首をふります。
 彼はだいたいいつも私の言葉を穏やかに肯定してくれるので、私は今回も「そうだね」というような返事が返ってくるものとばかり思っていました。
「どうして? VOCALOIDなら歌いたいと思わないの?」
「もちろん歌は歌いたい。でも今でなくていいんだ」
 それが彼の答えですが、私には意味がよく判りません。カイトの肯定以外の言葉はそういうことが多いのですが。
 だから私はすぐさま「それ、どういうこと?」と尋ねました。
「今でなくていいなんて、まるで時期を待っているみたい」
「たぶん僕はもう待ってはいないよ。ただ、今ではないと判っているから今はこれでいいんだ」
 ワンテンポ遅れて返ってきたその言葉は、やはり私には判りませんでした。彼はよく猫の毛の先をなでるような言い方をします。
 私はもう少し詳しく説明してくれるよう頼もうかと思いましたが、私が何か言う前にカイトがふいに話題を変えてこう尋ねてきました。
「ミクはこの家のことをどう思う?」
 今までカイトは強引に会話を終わらせたりそらしたりしたことがなかったので、きっとこれも意味のある問いなのだろうと思い、私は少し考えてから素直に思っていることを答えました。
「涼しすぎるなって思う」
「涼しすぎる?」
「うん。来た時から思ってたの。外はすごく暑いのに、この家は涼しいなって。楽器屋さんの家も暑くはなかったけど、どちらかというと温かかった。この家は寒くはないけど、涼しすぎると思うよ」
 私の返答にカイトは、なるほどと一つうなずきました。
 そして「おおむね僕と同じ感想だ」とつぶやくように言います。
「だけどそれも近いうちに変わるよ。家族が増えたし」
 カイトはそう言って眠っている猫を指さし、それから私の方を見ました。
「君が来てくれたから」
「私はカイトと同じロボットで、人間や猫じゃないよ」
「でもVOCALOIDだろ?」
「そうだけど、それはカイトもでしょう?」
 これにカイトは不思議な笑みを浮かべてみせました。
「君だから意味があるんだ。君のその歌声がこの家を変えるだろう」
「どういうこと?」
「説明するのは難しい。曲の一音一音すべてを解説するのが難しいようにね」
「実際に聴いてみるのが一番ってこと?」
 そう言うと彼はよく判っているじゃないかと言わんばかりに、にこりと笑いました。
「カイトはそれを待ってるの?」
「……変わればいいとは思ってる」
 私の問いかけにそんな風に答えてカイトは手に持っていた雑誌をそっと閉じ、テーブルの上に乗せました。
「そろそろスリープモードにしておこう。今年の夏は暑くて電気代がばかみたいにかかるから、節電しておかないと」
 私はこの家ではそんなにかからないのではないかと思いましたが、特に反論せずそれにうなずきました。



6.孤独の戦い
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【小説】リトル・オーガスタの箱庭(5)

閲覧数:184

投稿日:2011/09/09 17:31:32

文字数:4,470文字

カテゴリ:小説

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