ある日、公園のそばを歩いていたら、子供が「タイヨウノカド、タイヨウノカド」と叫んで走り回っていた。その声はもう嬉しくって嬉しくってたまらないと感じで、はしゃぎまわる感情が自然に出させたもののようであった。
子供の感性とは不思議なもので、見たことのないものがあれば、それは世界で自分しか知らないことで、そのキラキラとしたものを、自分の記憶の宝箱にしまってしまうのだ。その宝箱に収められたものは、いつまでたっても大事なもので、そしてあふれることがない。ただその宝箱は、あふれてしまうおもちゃ箱と同じで、大切なものがどこにいったのか一様にわからないのだった。そしてある日ふと見つけることになるのである。
タイヨウノカドを見つけたその子供は幸せだ。なぜなら僕はみつけていないからだ。僕はタイヨウノカドとやらが気になって気になってしょうがなかった。
僕の記憶の中に太陽の記憶はなかった。降りそそぐ光のもとを、僕は気にすらしたことがなかった。当たり前に受け取る。僕の記憶の宝箱や、知識の中にタイヨウノカドが収められていないのだから、目の前に現れるのを待つよりほかない。
――いや、つくりだすのだろうか?
太陽はもともと丸いものだ。その丸@い太陽にカド、だ。太陽の形が四角になると言う異変は歴史に残されていないし、天体の法則にも当てはまらない。あまねく星々は丸の形を取っていて、四角いものは未だかって確認されたことはない。
きっとあの子供は、偶然太陽が四角に見える現象に出くわして、喜んでいたに違いない。四角いバケツに水を張って、光点がちょうど隅にあって、それをタイヨウノカドと呼んでいたのだろう。きっとそうだ、子供の喜ぶことだ――。
こうして彼は太陽を四角くすることを諦めた。しかし、その子供は、太陽を四角に見ようとして、それに成功していたのだ。子供ゆえの無邪気で根気強い意志であった。その方法は――。
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