「どうもー! 藤原徳訓です! えー、最近あった出来事なんですけど……」
徳訓は、いつものように自己紹介から漫談を始めた。しかし、客席の反応は鈍い。まばらに座る観客は、スマホをいじったり、あくびをしたり、明らかに集中していない。
「……俺のネタ、つまんないんかな……」
心の中で呟きながらも、徳訓は必死に演目を続ける。持ちネタの中から、一番ウケが良いはずの「電車での珍事件」を披露するも、笑いはまばら。
「……どうもありがとうございました!」
予定よりも5分も早く、ネタを終了してしまった。舞台袖に戻る足取りは重い。
「徳訓さん、お疲れっす」
声をかけてきたのは、劇場のスタッフの女性、山本さんだった。20代後半、いつも面倒見が良く、徳訓にとって数少ない心の支えだ。
「山本さん……今日の俺、どうでした?」
徳訓は、期待と不安が入り混じった表情で尋ねる。しかし、山本さんは、いつもの優しい笑顔で答えるだけだった。
「徳訓さんらしくて、よかったですよ!」
「……そ、そうですか……」
その言葉が、慰めであることは、痛いほど分かっていた。売れない芸人にとって、残酷なまでの現実だった。
楽屋に戻ると、後輩芸人の影山がいた。2年前にNSCを卒業したばかりの、期待の新人だ。
「徳訓さん、お疲れっす! さすがっすね、あの安定感は!」
影山は、満面の笑みで話しかけてくる。社交辞令だと分かっていても、徳訓は少しだけ心が軽くなるのを感じた。
「おう、影山か。今日も頑張ってるな!」
「はい! 明日は、新しいコントを試そうと思ってて……」
影山の目は、希望に満ち溢れている。徳訓は、かつての自分の姿を、そこに見た。
「そうか……夢に向かって、頑張れよ」
「はい! いつか、徳訓さんみたいに、劇場を満員にできるようになりたいっす!」
影山の言葉に、徳訓はドキリとした。劇場を満員にする。それは、遠い昔に見た夢だった。
「……ああ、また明日な」
徳訓は、複雑な表情で楽屋を後にした。夜の街に、彼の小さな背中が消えていく。
売れない芸人の現実は、厳しい。それでも、徳訓は諦めなかった。諦められなかった。心の奥底に、まだかすかに残る「お笑いへの情熱」が、彼を突き動かしていた。
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