壁を殴る鈍い音が教会に響いた。
「……」
殴った当の本人である男は無表情で、痛みすら感じていないようだった。
キャソックを着てストラを肩にかけていることから察するにこの男は神父だろう。しかしロザリオを持たず、それが床にバラバラになって撒き散らかされている状態は実に異質だ。
「……神は無慈悲だ……」
苛立ちと少しの切なさを含んだ声はこの場におよそ似つかわしくない言葉だった。
彼の想い人が亡くなったのはほんの先日の話。週のはじめに風邪をこじらせたと思ったらあっという間に旅立ってしまった。おそらく流行病だったのだろうと周りは言っている。
治るようにとの思いで毎日祈りを捧げていた甲斐もなく神に奪われてしまった。その事実が何より彼を落とした。
「いっそ堕ちたらどうだ?」
背中の方から聞こえてくる声。はっとして振り返った。この場所には他に誰もいないはずだから。
「……誰だお前は」
十字架の正面、祭壇の上に腰をかけている、羽を生やした男がそこにはいた。
「近所に住んでるただの悪魔でっす」
口調が軽く、フランクに話しかけてくるが自身で名乗りを上げているように悪魔であるのならなぜ、
「……ここは聖域だが、なんで入ってこれる……」
何より疑問に思った点はそこだ。神父は床に散らばったロザリオの中から十字架だけを素早く手にとって身構えた。
「なんだ、まだ縋るんだ」
少し呆れたような声色で言い、肩をすくめた。
「質問に答えろ」
「……聖域聖域って、この森に勝手に入ってきたのはそちらさんだっていうのに。その言い方は酷いなあ」
「……」
間違ったことは言っていない。ぐ、と口を閉じるがしかし鋭く睨んだままだ。悪魔は未だへらへらと笑うように言葉を続けた。
「俺はちょっと神父さんをお誘いに来ただけなんだけど」
「今は私の領域だ。勝手に入ってくるな、悪魔め」
ぴしゃりと言い放ち一歩二歩後退る。元から近くない距離だが警戒をしてのことだろう。
「……さっきまでカミサマを憎んでいそうなくらいだったのに、よく言うね」
「……っ」
へらへらとした笑顔が一気に冷たい表情に変わった。それを察すると眉間に一層皺を寄せた。
「あんたは女を亡くして神を憎んだ。聖職者としてあっちゃいけないよなぁ?」
「……」
雲の切れ間から僅かに月の光が漏れ、ステンドグラス越しのそれは教会の中を似つかわしくないくらいに色鮮やかに染めた。
悪魔は事実をただ口に出しただけにすぎない。その言葉にいちいち突っかかるのはおかしい話だ。神父はふん、と鼻を鳴らして背を向けた。
「なんだ、俺からも背を向けたのか。もう神には頼らないんだろう?それなら俺の方に来いよ。慈悲も、あるぞ?」
「……慈悲…ねぇ…、無慈悲な神よりかは、いいかもねぇ」
目をいっそう細めて、半ば自虐のようにも取れる声色で言った。月明かりを通したために赤い影の付いた数珠。それを踏んだために静か極まりない教会の中に鈍い音が響いた。
「だから、堕ちてみろよ」
じゃり、と数珠が一層擦れる音がしたかと思えば、囁かれる悪魔の声。それもすぐ後ろ、いや、どちらかと言えば耳元。
「……っ」
ばっと身を離そうと前かがみ気味になる、足を踏み出そうとする。けれども、裾の長いキャソックでは一歩の歩幅もたかが知れている。おまけにその裾につまずいて前かがみになったまま倒れそうになった。
「……とっ」
しかしとっさに服を掴まれたために転倒は免れた。それは同時に悪魔から逃げられないということを示していた。
「……何」
「倒れなくてよかったな」
「そうじゃ、なくて、」
さり気なく引き寄せられ、吐息がかかるほどに近い。
「強情になるのなんてやめろよ?」
「そんな、」
わけない、と続くはずだったそれは唐突に途切れた。
「神なんかよりも、よっぽどいいのに、」
「……馬鹿じゃないの、堕ちるも何も、信じられるものなんて、もうね、」
彼女を失った今は、と言葉にならない呟きが漏れる。
すっと伸ばされた手に視線が行った。
「どうする?」
「……」
また、じゃり、と数珠が音を立てて靴裏で擦れる音がした。それと同時にカツンと何かが落ちる音も同時に教会内に響いた。
残った影は見えない。
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