FLASHBACK1 M-mix side:α
あれから。
あの、まるで時が止まってしまったかのようだった“その”瞬間からどれくらい経ったのだろう。
あの頃は初夏だっただろうか。だとすれば、もう五ヶ月か。
(そっか。もう、半年近く経ってるんだ……)
白い部屋の白いベッドに横たわっていた少女は、目が覚めると、ぼんやりと窓の外を眺めながらそう思った。意識が戻ってからは、ほとんど毎日のように、そうやってあれからどれくらい経ったのかを考えてしまっていた。最早日課になってしまっていると言っていい。
国際病院の五階の個室。それが今この少女のいる部屋だった。扉の外には、彼女の名前が記されている。
四角い建物の中にある、四角い部屋。更にその中にある、リクライニングが出来るけれど、しっかりとした手すりの柵に覆われた四角いベッド。全てが四角く、全てがくすんだ白色だった。それは、言わば酷く無機質な揺りかごみたいなものだった。
あれから一体どうなってしまったのか、彼女にはよく分かっていない。
カイトを刺し、そして自分の喉を切り裂いて倒れ伏した後、聞いた話では二週間ほども生死の境を彷徨ったのだという。その後、病状が安定してからも数ヶ月意識が戻らなかったそうだ。
その事実は、彼女にとってはいまいち現実感に欠けていた。自分の意識からすると、“その”瞬間の後に倒れ、次に気付いた時にはもうこのベッドに寝かされていたのだ。その間に数ヶ月経っただとか、生死の境を彷徨っただとか言われても、まるで他人事の様な、自分の事では無いかの様な感じしかしなかった。
だからこそ、彼女は数える。あれからどれだけの時間が経ったのかを。
そもそも、それくらいしかやる事が無かった。他に何をすればいいか分からなかった、とも言える。
分かることなど、ほとんど無いのだ。
大学はどうなったのだろう。休学か、退学か。自分が一人暮らしをしていた部屋はどうなってしまったのだろう。それに、ここの入院費用はどうなっているのか。いや、そもそも誰が救急の通報をしたのだろう。カイトと自分には当然出来っこないし、ルカにその気力が残されていたとも思えない。ルカの心を砕いたのは、他ならぬ彼女自身なのだから。それに、カイトは無事なのか、ルカはどうなったのか。分からないことだらけだ。いや、カイトとルカに関して言えば、むしろ知らないままの方がいいのだろう、と彼女はどこか奇妙に納得する。あれほどまでに固執していたカイトの事が、今ではそれほど気にならなくなっていた。
彼女自身からすれば、まだつい最近の事だというのに、どうしてここまでの心境の変化があったのか。それは、自分自身でも理解できなかった。
ただ、あの時にあった激しく、激烈なまでの炎は、すでに彼女の内で完全に鎮火してしまったのか、くすぶってすらいなかった。その代わり、ただ静かな、ある種穏やかとさえ言える時が流れていた。それは、空虚さと紙一重の穏やかさだった。
医師の説明によると、喉の傷そのものはそれほど深刻ではなかったらしい。今はまだ声はほとんど出せないが、回復の見込みは十分にあるのだそうだ。ではなぜ入院が長期に渡り、意識が戻らなかったのかと言えば、失血が大量だった為だ。
一般に、失血が全体の三分の一になると生命の危険があると言われている。血液が失われる事により血圧が下がり、十分な酸素供給がなされずにショック状態になるのだ。更に失血が全体の二分の一に及ぶと、心停止になるとも医師は彼女に説明をした。
しかし、その医師は彼女が実際にどれ程の状態になったのかについては明言を避けた。恐らく、気を遣ってくれたのだろう。それはつまり、一時はかなり深刻な状態になっていたという事を暗に示しているようなものだった。ほとんど毎日のように脳波をモニターしている所からすると、酸素の欠乏により脳の一部に障害が出ていてもおかしく無いのではないだろうか。
彼女はそんな事を考えたりもしたが、脳波をモニターする理由は「経過観察」とか「念の為」としか教えてくれなかった。結局そこまでの説明はしてもらえないままだ。
自分がカイトの事に執着しなくなったのは、そのせいだろうか。そんな風に考えてしまう事もあった。脳に血液が回らなくなって、脳のどこか一部が――そう、例えば愛情や嫉妬を司っていた部分が――機能しなくなったせいで、その強い感情が無くなってしまったのではないか、と。
(……そんなのは、やっぱり言い訳かな)
俯いて、ため息をつく。自分の心境の変化を、そうやって病状のせいに出来たらどれだけ楽だろう。
何かのせいにするのは楽だ。これは自分のせいじゃないと思う事が出来るから。でも、これはそうやって逃げてはいけないものだ。
恐らく、自分の愛そのものが重過ぎたのだと、彼女はこの数ヶ月で結論付けていた。重過ぎたが故に、タガが外れて暴走し、そして零れ落ちて行ってしまったのだ。
後悔。
日付を数える度に、胸中に膨らむ悔悟の念。
それは、自分達三人の関係を崩してしまった事に対するものではなかった。自分なりの歪んだ理由がありはしたものの、自分がそうやって誰かの人生を破壊してしまった事に対する後悔だった。
あの時、激情に任せてしてしまった事に対する後悔。
(わたしは……何か、償いをしなきゃいけない)
それが何かはわからない。何を、誰に、どうしたら良いのかは何も分からないけれど、それでも彼女は、何かをしなければならないと感じた。その、自らの犯した過ちの精算を。
(でも、何をすれば償いになるんだろう……)
元々、そう簡単に答えが出るものでは無い事は分かっている。だが、考える事を止めてはならないと思った。
自分は死ぬべきだろうかと、そう思った事もある。だが、それは多分、単なる逃げに過ぎない。そう彼女は思った。自分が居なくなれば、自分のせいで傷付く人はいなくなるかもしれない。だが、それだけでは足りない。今度は、自分が誰かを救わなければならない。それが、償うという事ではないだろうか。
その考えは確かに、理に適っているように思えた。
(……。だからって、何をどうすれば良いかまで分かったわけじゃない)
何をどうすれば良いのか、理解できる時が来るだろうか。
(……分からない。でも、何かしなきゃ)
彼女はベッド脇のキャビネットに置いていたゴムを手に取り、長い髪を慣れた手つきでまとめた。頭の高い位置で二ヶ所にまとめ、ツインテールにすると、パジャマ代わりの白いワンピースのまま、病院のスリッパを履いてベッドから降りる。
まだ血が足りておらず貧血気味なので、激しい運動は出来ない、というかまだ外出許可も貰えないが、院内を散歩するくらいは大丈夫だ。
部屋の扉を開け、廊下に出ようとした所で、彼女はふと室内を振り返る。
巡回の看護師か検診の医師しかやって来ない、無機質な部屋。
彼女は、自分の空虚さとさして変わらない穏やかさが、寂しさから来ているものだという事を急に悟った。
(愚かな、わたし。こんなになっても、あんな事をしてしまっても、それでも愛が欲しいなんて)
傲慢だと、そう自らに言い聞かせてみたところで、それでもまだ愛を欲しがっている自分の気持ちをどうすることも出来なかった。
その事実に愕然として、どうすれば良いか分からないまま、彼女は――ミクは、ようやく廊下に出た。
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8月15日の午後12時半くらいのこと
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