自宅に戻った七河はまず、パソコンの電源を入れた。その時携帯にメールが入ったので見てみると馬場からで、「後1時間程で到着する」と一文だけ書かれており、「分かった」とさらに短い一文で返した。
 コーヒーを作る為、お湯を沸かし、帰り道の途中で買ったサンドウィッチを食べながら待った。食べ終わる頃にお湯が沸いたので用意していたカップにお湯を入れた。
 後ろを振り返るとヴォーカロンがある。あの時から一度も触れていない。今は人形みたいに静かに佇んでいる。これから動くのかと思うと少し緊張してきた。
 七河は動かす前に、馬場に頼んだヴォーカロン用USB通信ケーブルで内部の情報を探る事にした。元の持ち主の情報が分かるかもしれないし、色々設定を行うにもケーブルが必要だ。
 カップを持って部屋に戻る。デスクの椅子に座りパソコンでインターネットのブラウザを開いた。「ヴォーカロンの取扱い」という単語を入力して検索すると10件程ヒットしたので、馬場が来るまでそれらを眺めている事にした。
 暫くするとインターホンが鳴った。
 「はあい」
 七河は玄関のドアを空けると私服に着替えた馬場が入ってきた。
 「ほらよ」馬場はケーブルが入った袋を七河に手渡した。「1500円ね」
 「ありがとう」七河は礼を言って袋を受け取り馬場を上がらせた。
 「コーヒー飲む?」
 「おう、頼む」
 七河は冷蔵個を空け、缶コーヒーを1本、馬場にあげた。
 「缶コーヒーかよ……」
 「馬場さ、ヴォーカロンをこっちに運んでくれないかな。重いから気をつけて」
 「お、おう」 
 馬場は両手でヴォーカロンをお姫様抱っこの形で、軽々と七河の部屋のデスクの脇にヴォーカロンを座らせると、缶コーヒーを飲み始めた。
 七河は早速パソコンにケーブルを繋ぎ準備をする。
 「あれ、ヴォーカロンの方の差込口はどこにあるんだろう」
 「探してみるか」
 馬場はそう言うと、二人でヴォーカロンの服を脱がせて、探し始めた。端から見ると異様な光景である。二人とも他人の服を脱がせる経験なんて皆無だったので、少し手間取った。
 「本当にボロボロだな、動くか分からんなこれは」初めて露となった体の部分は、手足よりも酷い損傷だった事に二人は驚いた。
 「確かに。まぁ一応やってみるよ。あ、これかな?」人間で言うと二の腕の部分に、縦3センチ、横5センチ程の長方形に切れ目が見え、その切れ目を摘んで開けてみると、USBの差込口が二つ付いていたので、片方に接続した。すると、パソコンの読み込みの作業が始まり、一つのフォルダが画面に表示された。
 そのフォルダを開いてみると、ヴォーカロンの設定をするツールや、データベースの残り要領、一見よくわからないファイル等、様々なファイルがあった。
 「一応フォルダは開けたな。しかし色々あるもんだな」馬場はコーヒーを飲みながら興味深そうに七河の後ろから画面を覗き込んでいる。
 「おい、それ……」馬場は驚いた顔をして七河の肩を叩いた。
 「え?なに?」
 「この、右上にあるファイルの名前が……」
 馬場はそのファイルを指で指して七河に教えた。
 二人はそれを見て息を飲んだ。
 そのファイル名とは、『このヴォーカロンを拾った方へ』と書いてあった。
 「このヴォーカロンを拾った方へ……か。うーん……」七河はそう呟いた後、腕を組み、暫くそのファイルを眺めた。
 ファイルの種類はテキストファイルではなく七河が見たことがない拡張子だった。
 まずネットでその拡張子を調べてみようと思ったが、その時。
 「見てみようぜ」馬場は後ろから手を伸ばし、マウスを操作してそのファイルを開いた。
 「あ!ちょっとまっ……」七河は制止しようとしたが、一瞬遅く、馬場がファイルをダブルクリックして開いた。
 すると、パソコンの画面に『処理中です』の文字が現れ、数字が0%から10%・・・20%と増えていく。
 「何を処理しているんだ、一体」馬場は不思議そうに見ている。
 「嫌な予感がする」
 進捗率がどんどん増えていき、ついに100%となったとき画面に『フルフォーマットは正常に完了しました』とメッセージが表示された。
 「……まじか」馬場は空いた口が塞がらなくなってしまった。
 そのファイルは自身のファイルが開かれるとヴォーカロンのフルフォーマットの実行がされるようプログラムされていた。コンピューターウイルスの一種だ。
 フルフォーマットとはデータを最初の状態に戻す処理の事で、勿論このヴォーカロンが今まで覚えてきた単語・行動・記憶等がすべて消えてしまう。七河はその後、設定ファイルを確認してみたが、やはりすべての設定がデフォルトに戻っていた。
 「駄目だ、本当に初期化されてるね。でも一体どうしてだろう」
 「さあ……全くわけわからん」
 二人は暫く唖然としていた。途中馬場はタバコを取り出し火を点けた。それを見て七河もデスクに置いてあったセブンスターを一本抜き取り火を点けた。
 「とりあえず、動かしてみようか」七河は言った。
 「主電源の入れ方わかるのか?」
 「うん。調べた」七河はおもむろにキーボードを叩き始め、先ほどの問題のファイルがあった箇所と同様の場所に、ヴォーカロンの主電源操作のファイルがあり、それを実行した。
 『ヴォーカロンの主電源をオンにします。よろしいですか?』のメッセージが表示され、七河は『はい』のボタンを押した。
 数秒経つと、ヴォーカロン内部で僅かな起動音が鳴り、電源が入った事が分かる。初音ミクタイプのヴォーカロンはまだ座ったままで動かない。初期起動の為、何かを処理しているのだろうか。二人は黙って見ている。
 「どうする、七河」3分程経過した所で馬場が口を開いた。
 「さあ、電源を入れれば動くはずなんだけど……」しかし、その七河の発言のすぐ後にミクは動き出した。「あ、動いた」七河は少し椅子を引いてスペースを開けた。ミクは手を床についてゆっくりと立ち上がろうとする。微かな腕の稼動音がするのが印象的だった。ミクは完全に立ち上がると、馬場のほうを向いた。最初に認識したのだろうか。
 それにしても本当に人間のような動きだと、七河は思った。
 「おはようございます」ミクは挨拶をし、お辞儀をした。
 「お、おはようございます」馬場はかなり緊張していた。声が片言になり、一歩後ろに下がる。七河も緊張しながらミクを見ている。しかし、ミクがパソコンの直ぐ傍にいて、ぶつからないか心配だった。ケーブルもまだ繋いだままである。
 「マスターは貴方でしょうか?」ミクは馬場に言った。綺麗な発音だ。
 場の空気は完全に異質なものに変化する。意識のある人間が(正確には意識ではないが)突然目の前に現れる感覚。それだけでも二人は当然刺激的だっただろう。それに女の子という事もある。馬場はもしかしたらこの距離で女の子に「貴方」と呼ばれるのは初めてだったかもしれない。
 「いや、マスターはこっち」七河の後ろに下がった馬場は、七河を人差し指で指してミクに教えた。
 「え、僕?マスターってなに?何をマスターしたの?」
 「お前だろ普通。マスターはそのマスターじゃない。主って意味のほうだよ。バーとかにいるマスター」
 「ああ、なんとなく分かった。でもその呼び方なんか嫌だな……」
 ミクは馬場に指を指された七河の方に目の焦点がいき、向きを若干修正した。
 「マスター。おはようございます」ミクは先程と同じように挨拶をし、お辞儀をした。
 「おはよう。ミク。今は昼過ぎだよ」七河はミクに教えてやった。
 「昼。とはなんでしょうか?」ミクは首を傾げた。
 「そういう事まで教えてやらんといけないのか。大変だな……。しかし凄いな。本当に会話のキャッチボールが出来ている。これは感激だ」馬場は感無量といった感じだ。
 「そうみたいだね、後で日常単語のパッケージソフトをインストールしないと大変だね。ミク、昼というのは一般的に一日の一番暖かい時間から日没までを昼って言うんだよ」七河は言った。
 「おい、昼も分からないのに一般的に、とか日没、とかわからんだろ」
 「むずかしいなぁ」ミクはやはり首を傾げる動作をしている。なかなか様になっている。
 「マスター」一呼吸置くと、ミクが七河を呼んだ。
 ひとまず、足元に置いてあるパソコンからUSBケーブルを抜こうと体を屈ませた七河だったが、ミクに呼ばれたので、顔だけ上に向ける。「はい?」
 「早速ですが、バッテリーが切れそうなので充電をしたいと思います」
 「うん。一人で出来るの?」七河はミクの腕に刺さっているケーブルも抜いてやった。
 「はい、電源は何処にありますでしょうか」
 「ああ、それじゃあ、あそこ使っていいよ、ちなみにこの人は馬場ね」七河は馬場の後ろにある電源を指差した。するとミクはゆっくりと歩き出し、電源の前まで来るとミクの背中からケーブルが飛び出し自分でそれを掴み体を屈ませ、コンセントに差し込んだ。
 「器用なもんだな」馬場はその動作に見入っていた。
 「本当は専用の充電器があるみたいだけれど、何処でも充電できるようにケーブルは内蔵されているんだね」
 ミクはコンセントに差し込んだ後、再び立ち上がり、こちらを向いて表情を変化させた。笑顔である。
 「宜しくお願いします。ババネさん」ミクは笑顔でそう言うと、静止状態になり、静かになった。
 「ババネかよ。お前のせいだ七河」馬場は唸った。「それにしてもお前、女性の服とか持ってるのか?」以外にお節介な友人である。しかしミクは二人で服を脱がせた時のままだったので裸だった。馬場がそう言うのも無理はない。
 「持ってるわけないよ」七河は即答した。
 「じゃあどうするん?」
 「Tシャツとかでいいんじゃないの?」
 「……」馬場は呆れた顔で七河を見ている。
 「え?Tシャツじゃ駄目なの?」
 「……だめやろ。それはありえないわ」馬場は当然だと言わんばかりに答える。「誰かさ、女友達とかいないのか?母親抜きで」
 「いないよ。うーん。でも、男だけど持ってそうな人がいるよ」七河は腕を組み目を瞑って、その男の知り合いを思い出していた。デスクに置いてあった携帯を手に取り、操作をし始める。電話帳を見ているようだ。
 「その人にさ、連絡して貸してもらえばいいんだよ」馬場は2本目のタバコに火を点けながら言った。
 「分かった。じゃあ電話してみるよ。番号変わってなければ良いけど」七河は目的の知り合いの番号が電話帳にあったことを確認し、そこに電話を掛けた。5回目のコールで電話が繋がった。
 「もしもし、秋都?久しぶり」久々に連絡を取ったのか、七河は少し緊張気味だ。馬場にはそれが分かった。
 「七河か!久しぶりだな、俺も丁度お前に連絡するところだったんだよ。まさかそっちから掛けてくるとはね」
 七河と熊沢秋都は大学の時に同じサークルだった。秋都は七河の2年先輩で、社会人になった後もよく二人で遊んだ。秋都はギャンブルが好きだったので、七河は麻雀やスロットマシンを教えてもらったりもした。しかし最近は仕事のせいかめっきり会わなくなり、連絡もごくたまにインターネットでやり取りをするくらいだった。なので二人で直接声で会話をするのは本当に久しぶりの事だった。
 「え?僕に?どういうこと?」
 「いや、ちょっと仕事上で話を聞きたかったんだ。それで、どうしたんだ?電話なんか掛けてきて。俺の用件はその後でいいよ」秋都は七河に先に用件を言うように言った。
 「うん。秋都ってヴォーカロン持ってたよね?その服をさ、余ってたら貸して欲しいんだ」
 「お前も買ったのか?でもデフォルトで付いてなかった?あ、でも最近のはデザインがダサいらしいな。流石のお前でも駄目か」
 「そういうわけじゃないんだけど……これ、実は拾いものなんだ」七河は横目で充電中のミクを見ながら言う。
 「拾いもの?というと?」少し秋都の声のトーンが落ちた。
 「うん。近くの公園でね。びっくりしたなあの時は」七河は簡単に当時の出来事を秋都に話した。
 「……それは本当か」興奮した声で秋都は言った。
 「え、本当だけど、どうしたの?」
 「いや、いいんだ。ちょっと、訳は後で話す。今すぐお前の家に行きたい所だが、急用を思い出した。近々行ってもいいか?土日なら会社休みだよな?」
 「休みだけど。なんで家に?」
 「そのミクを近くで見てみたいんだ。取り敢えずまた後で連絡する。服は俺のルカに持っていかせるから」
 「よくわからないけど……まあ、べつに服はその時でもいいけど?」
 「いや、用事がいつ終わるか分からないからさ。持っていかせるよ。1時間後には着くと思う」
 「1時間後って、秋都は今何処に住んでるの?」
 「有明」
 「ああ、なら近いね。分かった。ありがとう。それじゃあまた会ったときにでも色々話そう」そう言って七河は電話を切った。
 「良かったな貸してもらえて。1時間後に誰か来るのか?」馬場はタバコを灰皿で揉み消し言った。
 「うん。友達の持ってるヴォーカロンが服持ってくるって」
 「へぇ、そりゃまた凄いな。便利だなぁヴォーカロンは」馬場はソファに座って本を読み始めた。その本は以前七河の家に来たときに読んでいたミステリーだ。きっちり続きから読んでいる。ヴォーカロンが服を持ってくるまで、ここに居るつもりのようだ。
 「じゃあ僕はクリーニングに出したスーツ取ってくるよ」
 七河はそう言ったが返事は無かった。既に馬場は本に夢中になっていた。
 玄関のドアを空け、すぐ脇のコンクリートの階段を下り、道に出る。
 外に出ると、日が少し傾き始めている。人は疎らだ。
 クリーニング屋に行く途中のコンビニの前まで来たので、外の灰皿で一服する事にした。
 ここまで来るのに犬の散歩をしている女性と2度すれ違った。犬の種類は分からなかったが一人目はミニチュアダックスフンドという事は分かった。
 タバコを吸いながら空を見上げる。
 ワタアメみたいな雲がゆっくり流れている。随分向こうに、飛行機が飛んでいるのも見えた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

skycafe_5-2

5話中盤です。

閲覧数:25

投稿日:2011/10/09 12:04:25

文字数:5,825文字

カテゴリ:小説

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