しばらくして、俺は黙ってランプを消した。
ミクは依然として俺の隣に座っている。
何も言わずにミクにタオルケットをかけてやると、ミクは嬉しそうな顔をして俺の肩に身体を預けた。
「マスター、覚えてますか?」
「……………何をだ」
「昔、マスターが今日みたいにすごく取り乱したことがありましたよね」
「……知らん」
「ありましたよ。覚えてませんか?」
「……………」
沈黙を始めた俺に、ミクは語り続ける。
「私たちの歌がVOCALOIDデイリーランキングで十位を取ったことがあったじゃないですか」
「…………」
「あの時、私たちの動画は凄く荒らされましたよね」
「…………」
「あの時、私は凄く悲しかったです。自分が一生懸命歌った動画を荒らされて。本当に悲しかったです」
「……………」
「そして、マスターが荒らされたことに酷く無頓着だったのを見て、なおさら悲しかったです。マスターは悲しくないのかなって。一緒に作った動画なのに、悲しいのは自分だけなのかなって
」
「……………」
「そして私、泣いちゃいましたよね。涙の絵文字でパソコン画面を埋め尽くして」
「………………」
「そしたらマスター、凄くあたふたしちゃってて…………フフッ。本当に、見てるこっちが思わず笑ってしまうぐらい、取り乱して。あは、あはは。思い出すだけで、笑えます」
「…………あれは、パソコン画面が壊れたのかと思っただけだ」
「フフッ。そういうことにしておいてあげます」
「………偉そうなやつだ」
「そんな風に育ててくれたのはマスターです。私を生み出してくれたのもマスターなんですから。全部マスターのせいなんです」
珍しく悪戯っぽく笑うミクに対して、俺は「あっそ」と返事をするしかなかった。
「マスター」
ミクが急に声のトーンをはっきりと変化させて呟くので、怪訝に思ってミクの方を向いた。
唇に柔らかな衝撃が訪れたのは、コンマ1秒にすら満たない時間だった。
「たしか、これをファーストキスというんですよね」
頬を赤らめてうっすらと微笑む彼女に対して、俺はなんの返事も出来なかった。完全に思考が凍っていた。
「おま………………だって…」
「マスターが私のことを、ずっと娘のように想ってくれているのは知ってます。でも」
彼女の声は、いつのまにか震えている。強く震えた声で、それでも一生懸命に俺に伝えようとしている。
「娘が父親に恋をするのは、ダメですか?」
「ダメ…………ではない」
否定しなければならないのに、俺は否定することは出来なかった。
ミクは震えながらも、更に言葉を紡ぐ。
「マスター。お願いします。今夜だけでいいです。もうお願いしませんから。二度と言いませんから。絶対にしませんから」
「………………」
「恋人になりたいです」
明日、俺は死ぬかもしれない。ミクも死ぬかもしれない。明日より先の未来は、俺たちにはもうないのかもしれない。だったら。
だから。
「ああ」
と、俺は頷いた。
その夜。
俺たちは色んなことを喋った。
時々思い出したように唇を重ねたり、肌を重ねたりしながら。
この六年の空白を埋めるように。
まるで恋人のように。
ほんのたまに、俺が涙を流したり。ミクが涙を流したりしたけれど。
それでも、幸せな時間だった。
幸せすぎるぐらいに。
あの六年間の先に行き着いた未来がここだったのなら、この六年間も悪いことばかりだったと嘆くことはない。むしろ、酷く報われたような気もする。
数時間前の黒い気持ちなんか、もう消えていた。
死への恐怖はある。それはもう、忘れられない。
でも、当たり前で普遍的でなんの慰めにもならないことを言うのであれば、人間いつかは死ぬのだ。
死ぬことから逃げ続けることは不可能でも。
それでもせめて、死ぬ前夜をこの女の子と共にこうして過ごせるなら。
「俺の人生もそう捨てたものではなかった」
そう言って、笑って死ねるかもしれない。
出来なくてやっぱり泣き叫ぶかもしれない。
でも、やっぱり俺は笑って死にたいから。
ミクと一緒に、後少しだけこうしていたい。
翌朝。
時刻は、AM5:30。
敵が来るまで、およそ30分といったところか。
結局、ずっとミクと起きていた。いくら時間はあっても、足りないような気がしたけど。
「……ミク、歌を歌ってくれ。とびっきりの、楽しいやつを」
「でしたら……そうですね。初めて私たちがランキング一位をとった、『メルト』はどうでしょう?」
「ああ」
俺の返事に笑いながら頷いて、ミクは歌い始めた。
『初めましてってやつだ。ミク』
『ミ………ク……?』
『ああ、ココロプログラムはこの辺も再現するのか。つまりこいつは五歳の子供だな』
『ココ……ロ…?』
『あ……。っと。ミク、お前の名前はミクだ。ミク』
『ミ…ク……?』
『そう。俺は………パ、パ、パパだ』
『パパ………』
『………やはり恥ずかしいな。マスターだ。マスター』
『マ、ス………ター?』
六年ぶりに聴くミクの歌声はやっぱり明るくて、聴いていると身体がリズムを刻みだす。
太陽も昇り切っていない早朝のこの街を、ミクの歌声が透き通っていくようだ。
『マスター!動画のアップロード終わりました!』
『おう』
『もう、マスターどうしてそんなに素っ気ないんですか!記念すべき初動画ですよ!』
『どうせ初動画じゃあまり伸びねえよ』
『そんなことありませんよ!だってミクとマスター、一生懸命作りましたもん!』
『…………………はいはい』
やがて曲は最初のサビに突入する。
ミクがこの曲で真骨頂を発揮するのはここからだ。何度も何度も、二人でトレーニングしたから。
『マスター。新曲書いて下さいよー』
『最近忙しいんだ』
『ずっと家にいるのにですか?』
『俺の仕事は家にいながらでも出来るんだ』
『流行りの自宅警備員というやつですか?』
『違う。断じて違う。俺はそんな社会の底辺ではない。プログラマーなんだから、自宅でいいんだ』
『そうなんですか。どうでもいいですから新曲を』
『殴りたい!』
やがて、曲も終わる。
そろそろ、戦争の時間だ。
『マスター』
『なんだ』
『いつか、私が、マスターをプログラマーではなく作曲家として有名にしてあげます』
『……………………少しだけ期待している』
そして、ミクは歌い終えた。
「……ミク」
歌い終えたミクに対して声をかける。
「はい」
こちらを見ているミクを見ると、改めて思う。
本当に、死にたくないな。と。
「シークレットコードオン。r.02.o.82.c.46.k.j.00。ログイン。コマンド・命令する」
俺がログインコードを発した瞬間、ミクの身体は直立不動で固まった。無論、動くことも声を出すこともかなわない。
「速やかにこの場を撤退し、その後は自由に。どんな形でもいい。幸せになるんだ。絶対命令だ。全力で幸せを掴め」
これは、俺がミクをプログラミングした時に最後に組んだシステム。
俺の命令への絶対遵守。
使うことはないと思っていたが、まさか役に立つとは。
「以上。シークレットコード終了」
硬直を解かれたミクは、すぐさま左の瞳に蒼い焔を灯し、ドカンッ!という爆発音と共にこの場を離れた。
ああ。これで完璧に、死んだな俺は。
あまりにも怖くて身体はさっきから震えっぱなしだけれど。
顔だけは、別だ。
何故なら笑って死ねるぐらいの思い出は、もう十分もらったから。
サヨナラ俺の娘。
生まれてきてくれて、ありがとう。
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