16.夕立
苗が全て植わっても、所定の時間が来ても、青の民の興奮はいっこうに引かず、夕立が訪れてようやく『皇子の成人の儀』はお開きとなった。
雨に追われるようにして、リンとメイコ、そしてガクは宿に戻ってきた。
「やった……」
自室でつかの間の休憩をとるように言われたリンは、そっと後ろ手で扉を閉じる。
その手は、そのまま笑いのにじむ口元を押さえる。
「やった! やった! やったーーーーー!」
三段跳びでリンは跳ね上がり、そのまま寝台へ飛び込んだ。ばねがリンの背中を受け止めてぽーんとはじく。
「くふふふふ! あはッ! あはははっ! やったあ! やった! 大成功!」
ミクの驚いた顔とカイトの向けてくれた笑顔を思い出し、リンの心は跳ね回り、体は寝台の上で弾む。リンは足をぱたぱたと動かし、靴をそのまま放り投げた。
「カイトさま! ミクさま! ミクさま、カイトさま、ミクさま……!」
憧れの人たちの名をいとしげに呼び、寝台の上を転げ回る。そのままどたっと床に落ちたが、その木の感触ですら心地よい。
「みんな、喜んでた! すっごい、喜んでた! あたしの名前を、呼んでくれて……」
共に苗を植えてきたひとりひとりの顔がよぎる。リンに向けられるのは、笑顔しかなかった。
誰一人、リンを馬鹿になどしなかった。青の国の人々は、みんな、リンに、本当に嬉しそうな顔を向けてくれた。リンの手伝いを喜んでくれた。リンの名前を、楽しそうに呼んでくれた。それは、黄の国では体験したことのないことだった。
ころんと転がって、床の木の感触をなでた。
「この木は、あの森から来た」
リンは笑い止み、その指は静かにその板目を撫でる。
「カイトさまのおじいさまの、そのまたおじいさま、の、木……」
仰向けになると、太い柱と梁組が、リンの前で交差していた。力強い骨組みが、風の通る建物の骨格と、屋根を支えている。
「どんな、気持ちだったんだろ。あたしがこうして触っていることを、その人は、知らない」
青の国と黄の国は、よくも悪くもライバル関係だった。四代前の王の時代も、青と黄は決して中のよい国同士とは言えなかった。黄の国の歴史を学ぶ中で、リンは、そう聞いている。
「あたしが、こうして触っていることを、どう、思うんだろう……」
雨の音が屋根を叩いている。部屋はだんだんと青い闇に沈んでゆく。今日一日を照らした太陽が、雲の向こうでゆっくり落ちてゆくのだ。
「カイトさまと、ミクさまと、あたし……」
緑の国の頂点。そして青と黄の国との頂点に、いずれ君臨するふたり。
「ずっとずっと、仲良くできるといいな……今日みたいに」
雨は、力強く屋根を叩いている。この雨は植えたばかりの木にとって恵みになるだろうとガクが言っていたことを思い出す。
リンは天井を見上げた。背中に木の感触を感じながら目を閉じた。
今日植えた木が、力強く伸びますように。3つの国の絆が、強くつながりますように。
手の平にのこる、ミクとカイトの感覚を思い出しながら、リンは、雨の音に聞き入った。
* *
ミクは、優雅に宿に帰り、そして、自室に着くなり音高く扉を閉めた。
「あの子、あの子、あの子、あの子……!」
ばさりと塗れた服を脱ぎ、そのまま床にびしゃっとたたきつけた。
「やってくれた……!」
誰も見るもの、聞くもののいないミクの激情が、激しい雨の音と共に昇りつめていく。
リンの笑顔。つたないけれども力強い言葉、そして、人をひきつける天性の魅力。
彼女は、王族だ。王族から生まれた、王族だ。
緑の国は実力主義で、すぐれた者が王になる。その仕組みに選ばれた自身に、ミクは誇りをもっているが、ふとした瞬間、足元が揺らぐ。
美しい姿も、演説の巧みさも、人をひきつける会話も、ミクは苦労して手に入れた。
しかし、それを難なくやってのけてしまう人種がある。リンのように。
人は、不平等だ。そして、不公平なものだ。ミクが日ごろ肝に銘じている言葉だが、この日ばかりは嫌気がさした。
ぬれた髪が、体と顔に張り付く。払うこともせずに、ミクはぐっとうつむく。
「……困るのよ」
低く、うめいた声が、重厚な色の床に吸い込まれた。
「仲良くなど、してもらっては困るの。青と黄の国は特に、仲良くしてもらっては困るのよ……」
どん、と、どこかで雷が落ちた。どうか、リンの植えた苗であってくれとさえミクは思う。
頭に、リンの笑顔が、そしてカイトが浮かんだ。カイトは、リンを見ていた。
リンを、優しい笑顔で見つめていた……
ミクは、全ての服を脱ぎきった。髪を拭いて丁寧に梳かし、そして今夜の夜会用のドレスを選び始めた。
白い肌を、雷光が映し出す。壮絶なまでに美しくきらめいた緑の瞳が、ひとつのドレスを選び出した。夜の闇にとける黒に、星をちりばめたような銀のグラスビーズが、流れるように胸からスカートへとゆるい螺旋を描いている。
体を拭き、選んだドレスにしずかに袖を通す。
体の線にそって布地がミクを包み込む。深く切れ込んだスリットが揺れた。軽い生地が、肌に心地よい刺激を与えた。
「あとは……」
再び雷がどこかで落ちた。音が耳を裂き、光が目を灼くたびに、ミクの心は静まってゆく。
「少しの勇気と覚悟があれば」
見えない何かを捕まえるように、ミクは手を前に伸ばし、そのひらを固く握りこんだ。
「緑の国は、私が導く。緑の商いは工芸なのに、資源大国に協合されたら困るのよ」
ぐっ、とミクの目が暗闇で留まる。
「互いの良いところを吸収?すみわけ?……アホ王族どもの恋から、国ぐるみのなれあいが始まるなんて冗談じゃない。相手より安いもの、相手より質のいいものを目指して、いがみあうほどに競ってもらわなくちゃ」
ミクは、女王の座にのし上がる過程で人の感情の恐ろしさを知った。人の感情は、実は簡単に揺らぐ。お飾りの王族たちが仲良くしたところで国の政治に影響はそれほど出ないと人は言うだろう。しかしそれこそが人の感情をなめた、身を滅ぼす考えだとミクは思う。
「私は、気を抜かない。……黄も青も、競って競って、わが国に利をもたらすべきだわ。相手より良い麦を作るために、改良された緑の国の種を買う。相手より効率よく鉄を掘るために、緑の国の山で開発された道具を使う。ふたりとも、私の素敵なお客様でいて欲しいのよね」
穀物ひとつとっても、狭い緑の国では、国内向けの収量の多い品種、外貨を得るための味の良い品種が常に開発されてきた。急峻な地形で安全に仕事をするために、緑の国の道具の性能は他国よりも群を抜いて素晴らしいと評判だ。その評判から仕事が舞い込むことで、緑の国は成り立ってきた。
「そう。競って争えばいいのよ。黄と青と。二つの国が相手を出し抜こうとするほど、『緑』の力が必要になる。それだけ『緑』が豊かになる……」
青の国は美しい。豊富な雨。美しい山に穏やかな海。黄の国は、厳しい気候ながらも、広い。
「ただでさえ、気候や土地にめぐまれているのだもの、ちっぽけな私がこれくらいあがいたって、いいでしょう……?ね、リン王女様……」
まぶたの裏にリンの姿を思い出し、ミクはきつく唇をかんだ。リンは王族。生まれながらにめぐまれていた。自分は孤児。人の感情の織り成す地獄を見ながら女王の座に上り詰めた。
「ごめんね、リン様。カイト様に、仕掛けさせてもらうわ」
覚悟を決めたミクの口に笑みが引かれる。真っ赤に濡れたその唇が、嵐の闇の中で美しく輝いた。
続く。
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