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▼ 鉄のにおい
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 ここは鉄のにおいがする、と彼女は思った。
 壁をつたう非常階段。なんらかのガスを通すパイプ。まわる換気扇。そういったすべてがこの場所に鉄のにおいをもたらしている。少し錆びた、鉄のにおい。非常階段やパイプといった金属たちは、コンクリート製の壁に着生するツタのように見える。ツタとは植物のツタのことだ。幼い頃、わたしはツタの葉の裏のぶつぶつを気味が悪いと思っていた。
「誰だ」とふいに現れた男が言う。「ここは立入禁止区画だぞ。なんでこんなところにいる」
 男のきつい口調は、ここに彼女がいることを責め立てている。だから彼女がここにいるのは悪いことなのだろう――そのぐらいのことは、彼女にだって分かった。
「すいません」と一言。一切の抑揚をつけずに彼女は言った。
「出口はあっちだ。ほら、さっさと出てけ」
 男が示すのは、この廃工場だかなんだか分からない空間の奥の方にある扉だ。
 扉は重くて錆び付いている。そのことを、数十分前に彼女は確認している。
「どうしたんだ。突っ立ってても、出口にはたどり着かんぞ」
 どん、と正面から男が彼女の肩をどつく。男の体格はがっしりとしていて、一方で彼女は細身の身体をしていたから、彼女はふらっとよろめくことになる。そのよろめき方はいかにもか弱い少女といった感じで、男は自らの内側で嗜虐心が刺激されたのを感じた。男はこの廃工場で働く警備員のひとりで、低い給料の割に過酷な労働条件で働かされている。だが彼は、他の良い仕事に就く技術も能力も人脈もなかったから、この仕事をやらざるを得ないのだ。クソッ、と心の中で男が呟く。なんだって、俺がこんな仕事をやらないといけないんだ。いつだって、誰もが俺のことを見下す。この仕事では満足な金をもらえない。金のない俺は、適当な女も作れないし、そもそも女を作るための時間もない。だが俺は、本来こんな場所にいるべき人間ではないんだ……

 彼女は、そんな風にして苛立つ男の考えることを、よく分かっていた。彼女はまだ少女と呼んでもいいような年齢で、あまり多くの大人の男と接してきたことはなかったのだが、この男が醜いということを、顔を見たその瞬間から見抜いていたのだ。だから前述の「すいません」という言葉だって、申し訳ないという気持ちは1ミリたりともこもっていない。醜い男には、申し訳ないと思う必要すらないのだ。
 そういった彼女の思いは、目に表れていたらしい。
 男は「なんだ、その目は」と言って、もう一度彼女の肩をどつく。そして、二度あることは三度あるということわざの通り、連続してもう一発、肩を殴る。よろめいた彼女はバランスを崩して、冷たいコンクリートの床に尻餅をつくことになる。だが、目だけは男を睨みつけたままだ。お前の言うことなんて絶対に聞いてやらない、という力強い目。その目は男に、これまで男のことを見下してきた何人もの女の目を思い出させたらしい。「どいつもこいつも」と、男は顔を耳まで赤くさせて彼女のことを襲おうとした。

 いくら醜い男でも力だけはあることを知っていたから、彼女はすぐさま立ち上がり逃げることにする。彼女には武器もないし、力もない。拘束されたらひとたまりもない、だから気をつけろ、という警戒の信号が全身を包む皮膚から発せられる。彼女は走り、一番近くの非常階段を駆け登る。何度か掴まれかけて、その度に彼女の脳裏にはなぜか、成長するツタの葉の映像が再現された。葉の裏の吸盤で壁をよじ登るツタの映像。この男はツタだ。ツタは植物だから、炎で焼き尽くさないといけない。

 そう考えた次の瞬間、彼女の二の腕が男の手に捕われて、そして開放された。
 開放されたのは、振り払おうとした彼女の手が、男の目に突き刺さったからだ。激痛に襲われた男は、目を抑えようとしてよろめき、非常階段を転げ落ちる。転げ落ちた先には錆びて先の折れた金属の柵があり、男は首の後ろ側を、折れた先の一番尖っている部分に刺してしまう。血が広がり、やがて男は動かなくなる。男の服を赤茶色に染めた血の広がりを見て、彼女はまた、ここは鉄のにおいがする、と思った。

 …………

 ところで、彼女はここでなにをしていたのか。
 それは、探索だ。この廃工場にはなにかがある。彼女はそのなにかを探しているのだが、工場のどこにそれがあるのかは分からないし、そもそも、探しているそのなにかが、一体どのような形をしているのかも分からない。だから彼女の探索は、簡単には上手くいかないだろう。
 けれど、と彼女は考える。
 ここにはなにかがあるはずなのだ。襲ってきた醜い男の存在は、そのことを暗示している。
 なぜって、探し求めるもののある場所にはいつだって、天敵がいるものだからだ。

 数時間後、彼女は見つけるべきものを見つけて廃工場を出る。
 彼女がなにを見つけたのかということについては、わたしの語るべきところではない。
 それはまた、別の話だ。


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▲ 鉄のにおい
(誰よりも強いということ) ―― 終 ――
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※元絵:相原ふう様『she.』(http://piapro.jp/t/hae5)

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

鉄のにおい(誰よりも強いということ)

この作品は相原ふう様のイラスト『she.』(http://piapro.jp/t/hae5)をモチーフにした小説です。

書いている途中で上遠野浩平の『僕らは虚空に夜を見る』を思い出し、副題を『誰よりも強いということ』にした。この物語の主人公である「彼女」は、実際には武器もなにも持っていないから戦えないのだが、戦うための素質を持っている。素質は、抵抗とか反抗とかいったことに関係しているはずだ。
(そして、その抵抗とか反抗とかいったものには思い込みや勘違いといったことも影響しているはずだが、僕は、思い込みや勘違いがときどきすごく大切なものになることを知っている。)

閲覧数:246

投稿日:2013/01/27 01:51:05

文字数:2,326文字

カテゴリ:小説

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  • tamaonion

    tamaonion

    ご意見・ご感想

    日枝学さん、こんにちは。お久しぶりです。
    活動再開されて、また、作品が読めるのを嬉しく思います。

    この作品のシチュエーション、不思議で独特の魅力がありますね。
    元になったshe.さんのイラストも見させてもらいましたが、
    世界のイメージが連続しながら、日枝さんの独特の世界になっています。

    柵に刺さって死んだ男の「血」と、工場の鉄の臭いがダブルような、そんな錯覚もありました。
    果たして、彼女が見つけたものって…
    いつかその謎が解けるのを、期待しています。

    それでは、失礼します。

    2013/01/27 17:59:18

    • 日枝学

      日枝学

      >>tamaonionさん
      おお、お久しぶりです! 作品読んでいただけたんですね、ありがとうございます。
      イラストを元に小説を書くという試みは、PIAPROではやったことがなかったんですが、楽しいものですね。自分の頭の中にあるイメージではひねり出せないものがあっさりと出てきたりして、なんだかいつもと違う感覚です。それに、魅力のある絵を題材にしようと思うと、元の絵の魅力に負けないように作らないとな、という感じになって、意識が引き締まるんです。するといつもより集中出来るから、そこも楽しいところですね。

      メッセージありがとうございました!!

      2013/01/28 12:37:39

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