FLASHBACK2 L-mix side:α

 少年はベッド脇のキャビネットの上に置いてあった注射器――と言うにはいささかカジュアルな物ではあったが――を手に取り、カートリッジを取り付けると、ためらいがちに自らの左腕に刺した。
 注射器から体内へとカートリッジ内のインスリンが注入され、血液内を巡る。
 少年は注射器を抜くと、思わず止めていた息を吐き出した。
 注射は嫌いだ、と少年は思った。
 実際の所、痛みという痛みはそこまでは感じない。だが、彼には針という異物を身体に刺す、という事実そのものが受け入れ難かった。これまで何度もやってきた通り、これからも毎日やらなければならない事ではあるのだけれども。
 見慣れた四角い部屋の四角いベッド。何度も入院と退院を繰り返せば、それらは嫌でも見慣れてしまうものだ。部屋の外の表札に記されている彼の名前も、この病院の医師や看護師には見慣れたものになっていた。
 少年は糖尿病だった。
 と言っても、少年の病気はいわゆる生活習慣病としての糖尿病では無い。すい臓内にある細胞がインスリンを分泌できなくなった為に血糖値が上がってしまう、自己免疫性疾患と言われる1型糖尿病だった。一般に生活習慣病として知られる糖尿病は2型糖尿病と言われる。同じ病名ではあるが、発生原因が全く違うものであるため、その治療法もまた全く異なるものだった。1型糖尿病の場合、食事の際のカロリー制限をしてもほとんど効果が無い。血糖値を下げる唯一のホルモンであるインスリンが、そもそも体内に無いからだ。治療法は、分泌出来なくなったインスリンを、こうして注射により体外から摂取し続ける事だ。インスリンを注射し続け、高血糖による昏睡や、糖により網膜や神経等がやられてしまう様々な合併症を防ぐ事だ。それでも、完全に防ぐ事はあまりにも難しい。
 つまり、この注射はこれからずっと少年が付き合い続けなければならないものであるという事だ。もちろん彼にもそれは分かっている。それでも、いつになっても、たとえ慣れてしまったとしても嫌いである事は変わらないだろうなと少年は思う。
 そんな事を考えながら、注射器をキャビネットの上へと戻していると、部屋の外の廊下から扉の軋む音が聞こえた。
(あ、あの人だ……)
 少年は音のする方を向いた。
 四角い部屋のくすんだ白い壁。その壁の向こう、廊下の向かい側の部屋に居る少女を、少年は思い浮かべる。彼女はどうやら自分よりは数歳年上のようだった。たまたま廊下ですれ違ったりと、顔を合わせた事が無いわけではないが、彼女は少年が見かける度、何か思いつめたような、物憂げな表情をしていた。たぶん、彼女は少年の顔を覚えてはいないだろう。向かいの病室に居る少年が、廊下で彼女とすれ違った事にすら気付いていないかもしれない。それ程に思い悩んでいる表情だった。それは儚げで、可憐な姿として少年には映った。
 何か、少年には分からない事を思い悩んでいるのだろう。この病院に入院しているのも、彼女の喉に巻かれた痛々しい包帯の下に理由があると少年は思った。
 あの、部屋の表札によればミクという名の少女が何に思い悩み、何に苦しんでいるのかは分からない。けれど、そんな少女を見る度、何か自分にも彼女の手伝いが出来ればいいのにと思った。彼女の支えになる何かを、自分が与えてあげられたらいいのにと。
 僕の言葉が、僕の心が、暖かく照らして、彼女を救う何かになったらいいのにと。
 そんな自分の気持ちを、いつか彼女に届ける事が出来るだろうか?
 その少年の疑問には、すでに明確な答えが出ていた。他ならぬ少年自身によって。
(そんなの、決まってるじゃないか。僕が、行動を起こさない限りは絶対に届かない。分かってる。分かってるけどさ……)
 その行動を起こす事は、少年にはとてつもなく大きな勇気を必要とした。ただ軽く、声を掛ければいいだけだ。そうは思っても、それだけの勇気は一向に湧いてこない。
 少年は昔から入院と退院を繰り返したせいで、学校でも友達と言えるほど仲の良い人はいなかった。学校を休む度に皆の勉強について行けなくなり、流行りの話にも置いて行かれた。次から次へと共通の話題が減っていき、当然のごとくそれに合わせて会話が減った。次第に話をする友達と呼べる人も減って、大学に進学した今では、講義に出席しても誰かと会話をする事などほとんど無かった。
 唯一の例外は、同い年の義理の姉くらいだ。それも、話しかけるのが苦手になってしまった彼を気遣ってか、姉からよく話しかけてくれるからこその物で、その姉が居なかったら、自分は間違いなく中学高校と不登校になっていただろうという確信がある程だった。
 そんな訳で、1型糖尿病という病気のせいで引っ込み思案にならざるを得なかった彼からすれば、向かいの病室に居る少女に声を掛けるなど、余程の事が無ければ出来るはずもなかった。
 こんな自己問答だって、彼女が病室から出る事が出来るようになってから、ほとんど毎日のようにしている。我ながら、なんて間抜けなんだろうと思う事すらある。
(今、部屋を出たら、あの人を見る事が出来るのかな……)
 彼は、我ながら情けない発想だと思った。
 だが同時に、それが少年の精一杯の勇気でもあった。
 一瞬に過ぎなかったとしても、同じ空間に居るという事。それはもしかしたら、自分にその気が無くても、何かのきっかけで声を掛けることが出来るかもしれない。そんな淡い期待を抱く事くらいは、許されないだろうか。
 少年はそう思うと、慌ただしく身だしなみを整えると、ベッドから降りる。スリッパ越しの床の冷たさが、一瞬とはいえ彼の思いを鈍らせた。が、ここまで来て後には引けない。と言うか、何か起きる可能性の方が低いのだ。正直な話、少年がこうやってツインテールの少女を一目見る為だけに部屋を出るのも、一回や二回では無い。それでも、それだけの勇気を絞り出す事に相当な労力を彼は費やしていたのだが。
 それを知ったら、彼女は怒るだろうか。それとも呆れるだろうか。
 正直な所、少年には、その問いには芳しくない答えが出るような気がした。が、ここまで来て引き返すのもまた、どこかはばかられるような感覚があった。
 ベッドからたった数歩の距離に、廊下へと出る為の扉はある。その扉を前にして、彼はまた思い悩む。傍から見れば、それは優柔不断でうじうじしているだけに見えるかもしれない。それでも、これが少年の精一杯だった。
 今まで通り、何にも無いさ。そう自らに何度も言い聞かせて、少年は――レンは深く息を吸い、意を決してその扉を開けた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

ReAct  3  ※2次創作

第三話

今回は二話分更新です。
なにげにこの回の書き出しは気に入ってます。これが物語の冒頭の書き出しだったらどんなによかったかと思うくらいに。

彼の病気に関しては、学生の頃の友人にごめんなさいと言うしかありません。彼の苦しみやつらさを理解なんてしてもいないのにこうやって書く事で理解したつもりになるのは我ながら傲慢だな、と思います。まじごめん。
ちなみに、国内の糖尿病患者の9割が2型で、1型は1割程度しかいないそうです。また、とある作家によると糖尿病というのは、人類が寒冷地で生き残るために獲得した形質でもあるのだとか。血糖値が上がる事で血液の凝固点が下がるそうです。蛇足だったので本文中に入れませんでした。

閲覧数:1,078

投稿日:2013/12/11 22:58:33

文字数:2,741文字

カテゴリ:小説

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