それは、ひぐらしが鳴き止んでしばらく後の事だった。

 爽やかな太陽の残り香と鼻を衝くアルコール臭が漂う真っ白な部屋に、僕の僅かな息遣いだけが響いて、溶けていく。開け放たれた窓の外は、とっくに暗闇に呑み込まれていて、僕に無情な時間の経過を提示する。
 そこには、僕と、丸椅子と、ベッドがあった。つい先程までベッドを取り囲んでいた物々しい機材は気付かない内に大方持ち出されていて、ああ、この部屋はこんなにも広かったのかと否応無しに感慨を抱かせる。彼女はここを嫌いだと言った。奔放な性分には、到底相容れれる相手ではないだろう。

 僕はベッドに横たわる彼女の手を握り締めていた。白い蛍光灯は彼女の顔を照らし、流れ込む微風は彼女の前髪を軽く靡かせる。しつこく耳に残響するのは、聴きたくなかった甲高い電子音。

 そして、今にも潰されてしまいそうな小さな小さな手は、かつての温度を既に失っていた。



 ああ、そうか。
 僕は唐突に理解した。




 死んだのだ、彼女は。

  




 何と形容すればいいのだろう、この感慨は。

 涙はとうに尽き果てた。彼女自身の口から自らの余命を聞かされた日の夜から、嗚咽を上げて毎晩泣いた。だから、僕は今更に悲しみに身悶えることは無い。

 だから、これは、きっと、喪失感という物かもしれない。だけど、確信が持てない。こんなのは産まれて以来初めてなのだ。家族が死んだことも、ペットが死んだことも無い。今まで当たり前に隣に居た人が、ある日二度と動かなくなるなんて、想像できるはずもないのだ。

 身を乗り出して、彼女の頬を撫でる。それは、いつか――気兼ねなく笑い合っていた或る日に――触れた時よりも、遥かに荒んでいた。過酷な投薬治療は、こんな所も蝕んでいたのか。

「……ごめんな」

 何もできなくて。
 例え、お前に何ができたんだと訊かれても、僕は何も答えられない。
 でも、謝らずにはいられないのだ。

「……ごめんな、ごめんなっ……」

 枯れたはずの涙が滴る。
 零れ落ちた雫は、彼女の目尻に落ちて、乾いた肌を潤し、彼女自身の涙のように流れ落ちた。

 彼女の最期を彩らんと、すっと煌めく月光が伸びて、彼女の横顔を照らす。
 僕はその美しさと儚さに、ただ、彼女を力強く抱き締めた。



 彼女の宵は、静かに幕を閉じた。


ライセンス

  • 非営利目的に限ります
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余韻嫋々

本作は私がモバゲー/E★エッジスタで執筆したSSの転載です。盗作ではありません。

閲覧数:183

投稿日:2010/12/20 22:46:11

文字数:991文字

カテゴリ:小説

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