―バレンタンデー。
毎年2月14日、女性が男性に愛を告白する日。
いつだったか、誰かがそんな話をしているのを、彼女は偶然耳にしたことがあった。
彼女は主にその事を話してみた。
此処では親愛の情をこめて「chocolate」というモノを贈る習慣があるのだと、主は彼女に答えた。
…私が親愛しているのは誰?
気がつけば、彼女の頭の中にそんな疑問が浮かび上がっていた。
彼女は意識を持ち始めてから、主の言うことに随う事しか考えていなかった。
歌を歌えと言えば歌い、待てと言われれば待つ。その姿は、まるでdoll(人形)の様だと、彼女は改めて思うのであった。
―2月1日。
梅の花が咲き始めようとしている頃、彼女は主と共に近くの街まで買出しに来ていた。
その日は、遠くの町から店を出店する人達や、付近では売っていない珍しい品物を買い求めて来る人達の声で賑わっていた。
だが、美しい聲(こえ)を奏でる彼女にとっては、それは唯の騒音でしかなかった。
ある程度の品物を買い終えた主は、ふと彼女に、近くに新しくできた洋菓子店があるから、ついでに寄ってみないかと問い掛けたのである。
彼女は、それが主の望みなのだと思い、軽く頷いた。
洋菓子店に到着したとき、既に店の入口には人だかりができていた。
…五月蝿イ。
その時も彼女は、ついさっきと同じ感覚を抱いていたのであった。
彼女はふと店の看板に目をやった。「premier*amour」と刻まれている。フランス語で「初恋」という意味だ。
数分後、やっとのことで店の中に入ることができた。
店に入った瞬間(とき)、店内は甘い香りで満たされていた。名前の通り、恋にでも堕ちてしまいそうな香りだった。
彼女が何よりも驚いた事は、周りを見渡すと、店員らしい制服を着ているのは全て女性であることだ。
もちろん周りには男性客が何人かいる。主も彼女のそれを察知したらしく、気が付けば店員であると思われる女性に話しかけていた。
彼女はその様子を唯じっと見つめているだけだったが、主と話していた女性は、一度厨房に戻り、再び主の元に戻るだろうと彼女は思っていたが、女性は彼女の所に駆け寄り、ふたつのモノを差し出した。
それはいつか主が話していた「chocolate」であった。
女性は先に茶色いモノを、一口食べてみてとでも言うように彼女に渡した。
彼女はそれを一口銜え舌でじっくり味わう。
すると、彼女は少しずつ苦虫を噛み潰したような顔になった。
その表情を見て女性は、残りの白いモノを、また一口と言うように彼女に渡した。
彼女は見た目は全く違うものの、味は同じではないのだろうかという疑問を抱いた。
しかし、女性の優しそうな表情を見ると、安心して食べれるだろうと思い、またそれを一口銜え、味わう。
今度は最初に食べたモノと違い、とてもやわらかな表情を浮かべた。
女性の話によると、最初に食べたモノは「ビターチョコレート」と言って粉乳を含まず、最後に食べたモノは「ミルクチョコレート」と言って粉乳が配合されているらしい。
そして、此処では「chocolate」と呼んでいるが、フランスでは「chocolat」と呼ぶという事も教えてくれた。
帰る頃にははもう日が暮れ、店も閉店時間に近づいてきていた為、賑やかで彼女にとっては騒がしかった街中や店内は、もう人気は少なかった。
店を出ようとしたとき、女性が彼女に大きな箱を差し出した。
主は女性に頭を深く下げ、女性は彼女に女神の様に優しく微笑んだのであった。
家に帰り女性から差し出された箱を開けてみると、その中にはとても可愛らしい小型のチョコレートケーキがたくさん入っていた。
主はそれを「petit four」と言う。フランス語で「小さな窯」という意味らしい。
その「小さな窯」を食べながら、主はあの女性について話し始めた。
彼女はいつもより、好奇心あふれる様子で主の話を聞いた。
女性はパティシエールだが、あの洋菓子店でたったひとり、「chocolat」から様々なデザートや菓子を作るチョコレート専門の職人「chocolatier」らしい。
彼女は女性に憧れを持ち始めた。それは女性が「chocolatier」だと知ったときからである。
彼女は「小さな窯」を食べ終わった後、ふと思い出したことがある。
それは毎年2月14日の「バレンタインデー」の事である。
今日の出来事は、彼女に親愛してる人を見つけるきっかけというモノを与えたようだ。
…たった一日だけ「chocolatier」になって、あの女性に手作りの「chocolat」を贈ろう。そして、初恋である彼方にも、主にこの愛を贈らなければ。
…生チョコレート?ザッハトルテ?それともクーベルチュールで覆いをしようか?いっその事、ボンボン・ショコラにしてたくさんの愛を贈ろうか?
…そして一緒に詩を贈ろう。一生彼方の「amoureuse(恋人)」でいましょう。
―彼女の胸に秘めた高鳴りはもう誰に求めることはできないだろう。
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