彼女が髪を下ろしている姿を見るのは久しぶりだった。
 窓から入ってくる、冬の午後の緩い風に、長い ―― ルカのそれよりも長い髪が揺れて、頬を擽る度にくすぐったそうだった。

 お休みの日に押しかけてごめんねと水くさいことを言ってくれた少女は、ブラウスにネクタイと黒のミニスカートの、彼女の仕事着と言って良い定番のスタイルで、窓際に吊るしたモビールがゆらゆら動くのを飽きる様子もなく見上げている。
 細いワイヤーで鳥と雲を象ったそれは、あたかも風に乗って飛んでいるかのように、滑らかに位置を変えながら浮き沈みをしていて、それを一心に追っている大きな瞳は、その鳥に焦がれているようにも自分を重ねているようにも見えた。

「お茶、入ったわ」

 両手に一つずつ持ったマグカップを小さなセンターテーブルに置き、華奢な背中に声を掛ける。

「うん……」

 生返事を気にせず、ルカは言葉を続けた。

「行くの?」
「うん、明日」

 これも上の空になるか、良くても聞き返されるかと思ったが、答えははっきりと返ってきた。
 躊躇いのない返事にため息をつく。
 見た目は優しげに見えて、一度こうと決めたら絶対に折れない彼女のことだ。止めたって無駄なのはわかっているが、せめて一緒に行こうと誘ってくれたら良かったのに。
 薄情な親友を恨めしく思う。
 どうせ友情は恋に敵いやしないのだ。
 明日、この娘は、自分を置いて消えた男を、何も言わずに消えてしまった男を、追いかけるために旅立つ。
 ルカを置いて。仕事も捨てて。愛する家族と離れてまで。

 ―― そんな自分勝手な甲斐性なしのロクデナシなんて、いっそ見捨ててしまえば良いのに。

 内心で呟いたつもりの言葉は、どうやら口に出ていたらしく、振り返った少女が小さく笑った。
 窓から差す冬の陽射しに、どこもかしこも柔らかい線を描く輪郭が溶け込んで、金色に縁取られたように淡く輝く。
 そのまま光に溶けていってしまいそうな儚さに、ルカは目を凝らすように細めた。

 久しぶりの休日は穏やかな小春日和で、テーブルの上にはお茶とケーキ、部屋に遊びに来た親友がいる。
 文句なしに満たされているはずなのに、胸にぽっかりと穴の開いたような気分で、ルカは空っぽの片手を窓の方へ向けてかざした。
 そうすると光を浴びた自分の手の輪郭も、彼女と同じように金色に滲んで見えて、それに少しだけ満足する。

「晴れると良いわね」

 明日も、こんな風に。
 そう言えば、何の根拠もないだろうに、少女が笑う。

「大丈夫」

 呆れるくらい自信満々の答えに、ルカは異論を唱えるように片眉を上げた。
 どんな意味でも、彼女の『大丈夫』ほど当てにならないものはない。
 後で天気予報を確認しておかないとな、と密かに思う。
 彼女の旅立ちには、晴れた空がいい。一片の陰りもなく、どうか風も波も鎮まってあれ。

 「明日、なのね」
 「うん、明日」

 明日になれば。
 いつか彼女が置き去りにされたように、今度はルカが置いていかれるのだ。
 薄情で、頑固で、誰より一途な、この世で一番大切な親友に。
 失う痛みなんて知らなかったルカに、それを教えた彼女は、とても綺麗に微笑んで、窓の向こうに広がる凪いだ冬空を見つめている。

「ミク」
「なあに」

 親友の名前を呼べば、碧の瞳がルカを向く。
 優しい声も眼差しも、ずっと傍で守りたい宝物だった。

「歌って」

 ルカは笑みを浮かべた。
 笑うのは下手だったけれど、精一杯。
 彼女のように綺麗ではなくても、少しでも自然に笑えていたら良い。ずっと覚えていてもらえるように。

「もう一度、聞かせて。貴女の歌。貴女の記憶。貴女の物語。誰が忘れても、全部、私が覚えているわ」

 彼女との出会いも、過ごしてきた日々も。笑い話になった仕事の失敗も、共に喜んだ成功も。
 彼女の家族や、友達や、愛する人々。彼女を通じて繋がっていった世界。
 そうして、あの日、途絶えてしまった、彼女と誰かの物語も ――。

「私が、覚えているから。だから ―― 行ってらっしゃい」

 けれど、そう言った笑顔はよっぽど下手だったのか、親友の綺麗な笑顔がぐにゃりと歪んだ。
 情けなくへの字になりそうな顔をぐっと堪えているのに、今度こそ笑ってしまう。
 眉間に寄ったしわを指で押してやると、彼女は、うう、と変な唸り声を上げて眉間を押さえ、それから両手で顔を覆って俯いた。
 そのまま動かないのを心配になって覗き込もうとすると、ぱん、と鋭い音が響いた。

「……ほっぺた赤くなってるわよ」
「うう、そういうこと言わない」

 勢いよく自分の頬を引っ叩いて、顔を上げた少女はもう、いつもの笑顔だった。
 一番見慣れた、一番ルカの好きな笑顔だ。
 それで良い。
 どうか、これからもずっと、その顔で笑っていてくれたら良い。
 遠く離れても。
 この先、もう二度と会えないのだとしても。

「ピアノ、弾いてくれる? せっかくだから一緒に歌おうよ」

 ねだられるまま、部屋の片隅に置かれたピアノの蓋を開ける。
 椅子を引くとき、磨かれた鏡面に映った少女の唇が小さく、ありがとう、と動くのが見えた。

 私こそ ――。

 今度こそ胸の中だけで呟き、鍵盤にそっと指を置く。
 深呼吸して目を上げると、窓際でモビールが風に揺れているのが見えた。
 頼りない針金の翼で、窓の外に広がる冬空を、どこまでも悠々と飛んでいる。

 ―― 明日から、あれをどうしよう。

 ふとそんなことを思う。
 窓際で揺れているのを見ればそれを見つめていた彼女を思い出して泣いてしまいそうな気がしたが、さりとて外して仕舞い込んでしまえば彼女が無事に羽ばたいていられないような気がした。
 もしかしたら、いくつ季節が過ぎても、このちゃちな造りの玩具はルカの窓辺に居座るのかもしれなかった。
 雑貨屋でほんの気まぐれに買ったそれが、きっとルカにはこの先一生捨てられないものになるのだろう。

「……明日、晴れると良いわね」
「大丈夫」

 自信満々で、緑の髪の少女が言う。
 モビールから目を離し、ルカは親友の笑顔を呆れたように見つめた。

「まあ、雨なら雨で、傘くらい貸してあげるわ。蛇の目でお迎えなんて、ちょうど良いじゃない」
「良くないよ! 私、お母さんじゃないし!」
「男なんて、いくつになっても図体のでかい子供よ」
「いやいやー!ムードぶち壊し!絶対、晴れて!神様仏様!」

 ひとしきり騒ぎ、目を合わせたふたりが、同時に噴き出す。
 爆ぜるような笑い声に驚いたように、モビールがゆらりと一際大きく揺れて、小さな影が不規則に床に躍った。
 その慌てふためくような忙しない動きが元の悠然としたリズムを取り戻す頃、響いていた笑い声も収まり、 
 ―― やがて冬の陽の差す部屋に旋律が流れ始めた。

 二つの、歌声を乗せて ――。






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ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • 作者の氏名を表示して下さい

【ルカミク小話】 Winter Light ―冬の陽― (『memorial wings~キオクノツバサ~』オマージュ作品)

鉄は熱いうちに打て!ということで、カッとなってジェバンニしてみました。
comcom様の第一作【memorial wings~キオクノツバサ~】http://piapro.jp/content/s7l6f6puvizmeh3hからのインスパイア小話です。土下座の準備は万端です。

普通にルカさんで恋愛モノを書けばいいのに、エンドレスループで聞いてたら、ツインボーカルが素敵に脳内暴走しました。
ミクさんに置いてけぼりにされたルカさんが、一人でピアノ弾いて歌ってるイメージが浮かんだら、そんなルカさんがやたら可哀想可愛いじゃないか!←
・・・と思ってしまったのが運の尽き。

歌詞に沿ってませんので、ノベライズとはまた異なる気がするのですが、イメージは多々お借りしてます。
ひとつのオマージュとして、ひっそりこっそり捧げさせていただければ。

なお、イメージが大いに違うわ!と言われましたら、こそっとお蔵に放り込みます。はい。

閲覧数:882

投稿日:2009/11/21 03:08:06

文字数:2,873文字

カテゴリ:小説

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  • azur@低空飛行中

    azur@低空飛行中

    ご意見・ご感想

    comcom様、いらっしゃいませ!
    Σブックマークありがとうございます!ちょ、ちょっぴり恐れ多くも嬉しいです・・・!
    かなり勝手なマイ設定で書いてしまったので、曲のイメージを壊してなかったでしょうか・・・?

    曲を聴きながら、光景が目の前に思い描けるというのは、やはりその曲の持つ力だと思います。こちらこそ想像力を掻き立ててくれる、素敵な曲に感謝です。

    実は密かにユーザーブックマーク頂いてます。これからもどうぞ頑張ってくださいv

    2009/11/21 00:25:19

  • comcom

    comcom

    ご意見・ご感想

    メッセージ、ありがとうございました!
    あの作品からこんな素敵なお話が生み出されるなんて・・・!!

    感激です(T_T)!!むしろ使っていただいて感謝です。。
    ブックマーク、させていただきました★

    2009/11/20 02:25:53

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