それは寒い朝だった。
普段目を覚ますよりも早い時間、獣は毛布をひとかかえ持って、一階と二階をつなぐ階段踊り場にある、大きな暖炉の前に仏頂面で向かった。暖炉の火は既に消えかけていて、黒く炭化した薪がくすぶるように微かな赤を宿していた。その前で、この場所の主である老人が丸まって眠っている。
「おい。」
ばさりと、眠っていたアヤの上に獣は運んできた毛布を投げつけるように掛けた。もふ、と降りかかってきた柔らかな感触に、ゆるゆるとアヤが目を開ける。相手が目覚めたのを確認して、獣は煩かった。と悪態をついた。
「おまえの咳がまた煩かった。集中して本が読めなかったじゃないか。」
獣の文句に、アヤは起きぬけのぼんやりとした眼差しのまま、あったかい。と微笑んだ。
「あったかい。ありがとう。」
そう言って毛布にくるまり、幸せそうに笑うアヤに、だから煩かったんだ。と獣はむっつりと唇を曲げた。
けほん、と小さく咳をしてアヤは獣を見上げてきた。
老いた顔がそこにはあった。水気を失った皮膚。ぱさぱさの髪。骨ばった腕。それでも、その瞳に宿るあたたかな笑みは変わらないのが不思議だった。
「また夜遅くまで本を読んでいたんだな。」
不摂生は良くない。とアヤは窘めるように言ってきた。
その落ち着いた口調に、いつから、アヤは自分よりも落ち着いた生き物になってしまったのだろう。と獣はぼんやりと思った。ずっと落ち着きのないアヤを窘めたり苦々しく思ったりするのは自分だったのに。アヤのくせに生意気だ。とほんの少し、獣は癪に思った。
けほんけほん、と続けざまにアヤは咳をした。
「どっちが不摂生だ。」
そう言いながら獣は自分が着ていた上着もアヤに押し付けた。
「煩いから、それ早く止めろ。」
自分が偉そうに言える事が嬉しくて、わざと高慢な態度で獣はそう言った。他意はなかった。
獣の言葉に、つと、アヤが視線を伏せた。俯いたままアヤは呟くように言った。
「うん。もうすぐ、止まるから。安心して。」
アヤの静かな言葉に、空気が沈み込む様に重くなった。
もうすぐ止まるって何だそれ。そう言いかけて、獣は口をつぐんだ。ざわりと、体中が総毛立った。アヤの言葉の持つ意味に獣の心臓が早鐘を打った。
それは何かが終わってしまう気配。
「なんで、そんなことが分かる。」
獣が問い掛けるとアヤは俯いたまま、分かるものなんだな。と少し可笑しそうに笑いながら言った。
「おれ、今までに何度か死にそうな目にあったけど。これが、きっと本当だ。」
喉の奥で小さく笑って、アヤは、ごめん。と言った。
「嘘をついて、ごめん。ずっと一緒にいるなんて、嘘をついて、ごめんな。」
そう俯いたまま謝ってくる。その事がたまらなく嫌だった。
そんな風に、視線を逸らされたままでいて欲しくなかった。こちらを見て欲しいと、心の底から獣は思った。謝らなくていいから、自分を見て欲しかった。
「ずっとなんかあるわけがない。こんなの、わたしは予想していた。知っていた。いつかおまえがいなくなることなど、最初からわかっていた。そんな、だから、ごめん、なんか、言うな。」
忌々しげに吐き捨てた獣の言葉に、アヤが顔を上げた。
アヤの老いた皺だらけの顔が、深く凪いだ眼差しが獣を見つめて、ふと苦笑を浮かべた。
「あんたは、ずっと変わらない。出会った時から変わんないな。いいな。ずるいな。おれも獣になってしまえばよかった。」
「おまえが私と同じ獣になれるものか、馬鹿が。」
アヤの言葉に獣が悪態をつくと、アヤはそうだよな。と笑った。
「おれは、あんたと違って知恵を守る事を放棄したからな。だめだよな。」
そう言い、アヤは寝床にしているクッションに体を預けた。疲れたように、すう。とひとつ大きく息を吐き出してゆっくりと目を閉じてしまう。
その年老いた身体に死の気配が近づいてきていた。それを追い払うように、おまえ死ぬのは嫌なんだろ。と獣は叫ぶように言った。
「おまえはこの塔にやって来た時、死にたくないって言っていたじゃないか。自然の摂理に逆らうと。あれも嘘なのか。」
獣の言葉に、アヤは、ああ。と再びゆっくりと目を開けた。
最初は、死ぬ前に噂の獣を見てやろうって、思っただけだったんだ。と、アヤは言った。
「すげえ頭が良くて、人間が嫌いで、近づいたら喰い殺されるって噂だったんだよ、あんた。なのにさ。実際はひょろりとした奴で、怖い感じじゃなくてさ。頭に角はあったけど。しばらく噂の獣だって気がつかなかった。」
そう言ってくつくつと笑い、少し咽たように咳き込んで。ふと懐かしむ様にアヤは目を細めた。
「どうせ死ぬんだったら、そんな凶暴な獣に殺されるのも面白いかもしれない。そう思ってここに来た筈だったんだ。なのに、あんたはおれを助けた。」
そう言ってアヤは顔を歪めた。今にも泣き出しそうなその顔に、思わず手を伸ばし掛けて、しかし獣はこの期に及んでも自ら手を伸ばす事が出来なかった。
手を伸ばす事も触れることもせず、ただ見つめることしかできない獣に、アヤは、ありがとう。と言った。
「何にもない、おれを助けてくれて、ありがとう。」
穏やかに告げられたその言葉に、獣は、違う。と顔を歪めた。
「おまえは勝手に入って来たんだ。私は助けてなんかいない。私は、何もしていない。お前が、勝手に。」
せっかく高く積み上げていたものを簡単に飛び越えてきたくせに。
言葉が上手く組み上がらない。言わなくてもいい事まで言いそうになってしまう。獣は、これ以上何も言うものか、ときりと唇をかんだ。腹立たしかった。これはなに、これは、なんなんだ。こんなの、違う。理不尽な怒りが向ける事が出来ない苛立ちが、体中を駆け巡っていた。
そんな獣を、アヤは嬉しそうに見つめていた。
「うん。おれが、勝手に傍にいただけだ。」
そう言ってゆっくりと手を伸ばしてきた。アヤの老いて節くれだった指が、獣の柔らかな頬を撫でた。
「やっぱり冷たいままなんだな。」
そう少し残念そうに言いながら、アヤはそっと宝物でも扱うように獣の頬を優しく撫でた。
「あんたに笑って欲しかったよ。」
そう言って撫でてくるアヤの指が、優しくて温かくて。与えられるものは今までとずっと変わらず同じで。
だから、ずっと与えられ続けられると、どこかで信じていたのかもしれない。
「だけど、おれじゃない奴が、あんたを笑顔にするのは、なんだか嫌だな。」
そう困ったように言いながら笑う。
出会った頃から変わらぬ、陽だまりのように温かく柔らかな笑顔。永遠なんてものは人には無いけれど。この笑顔は何があっても変わりがなかった。
だから、ずっと笑ってくれると、やっぱりどこかで信じていたのかもしれない。
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